元史卷一百六十 列傳第四十七 李冶

問答の学識と晩年

  • 李冶、字は仁卿。真定欒城の人である。金の進士第に登り、髙陵簿に調されたが赴任せず、鈞州の事を知ることを命ぜられた。壬辰(1232年)年、城が潰えると冶は微服して北に渡り、忻・崞の間に流落し、書を集めて周囲に置き、人が耐えられぬような境遇でも冶は裕如として過ごした。
  • 世祖が潜邸にあってその賢を聞き、使いを遣わして召し「かねて仁卿は学に優れ才に富み、潜徳を耀かさないと聞いている。一度会いたい。他辞するな」と言った。冶が至ると、河南で官にあった者の中で誰が賢かったかと問われ「険夷ともに一節を通したのは完顔仲徳だけです」と答えた。完顔哈達とブハについて問われると「二人は将略が短く任じても疑いなくはいかず、これが金の亡んだ理由です」と答えた。魏徴と曹彬について問われると「徴は忠言讜論、言わないことがなく、唐の諍臣として見れば徴が第一です。彬は江南を伐って一人も妄りに殺さず、方叔や召虎に比べられます。漢の韓信・彭越・衛青・霍去病はここでは論じる限りではありません」と答えた。今の臣に魏徴のような者はいるかと問われると「今は側媚が風潮となっており、魏徴のような賢者を求めるのは実に難しい」と答えた。
  • 今の人材の賢否を問われると「天下に材が乏しいことはなく、求めれば得られ、舎てれば失われるのは理勢のしからしめるところです。今、儒生に魏璠・王鶚・李獻卿・蘭光庭・趙復・郝經・王博文らのような有用の材がおり、皆賢王がかつて聘問した者たちです。これを挙げて用いれば何の不可がありましょうか。ただ用い尽くさないことを恐れるのみです。しかし四海の広さ、これらの数子に止まりましょうか。王が誠に外に旁く求められれば、明廷に集まるのを見ることになるでしょう」と答えた。
  • 天下をどう治めるべきかと問われると「天下を治めるのは、難しければ天に登るより難しく、易しければ手のひらを返すより易しい。法度があり名実を控責すれば治まり、君子が進み小人が退けば治まる。このようであれば天下を治めるのは手のひらを返すより易しくないだろうか。法度がなく名実がなければ乱れ、小人が進み君子が退けば乱れる。このようであれば天下を治めるのは天に登るより難しくないだろうか。治の道は法度を立て紀綱を正すことに他ならない。紀綱とは上下が相維持することであり、法度とは賞罰で懲勧を示すことである。今、大官小吏から編氓に至るまで皆自ら縦恣にして私をもって公を害しており、これは法度がないためである。功ある者が必ずしも賞を得ず、罪ある者が必ずしも罰を被らず、はなはだしくは功ある者がかえって辱められ、罪ある者がかえって寵を得ることさえある。これも法度がないためである。法度が廃れ紀綱が壊れれば、天下が変乱しないことはむしろ幸いというべきです」と答えた。
  • 先の地震について問われると「天が裂けるのは陽の不足であり、地が震えるのは陰の有余である。地道は陰であり、陰が太いに盛んになれば常が変わる。今の地震は、あるいは姦邪が側にあるため、あるいは女謁が盛んに行われるため、あるいは讒慝が交々至るため、あるいは刑罰が中を失うため、あるいは征伐が驟かに挙げられるため、この五つのうち必ずどれかがあるからです。天が君を愛することは子を愛するがごとくであり、それゆえこれを示して警めるのです。姦邪を弁じ女謁を去り讒慝を屏け刑罰を省み征討を慎めば、天心に当たり人意に協い、咎を転じて休に変えることができるでしょう」と答え、世祖はこれを嘉納した。
  • 冶は晩年、元氏に家を構え封龍山下に田を買い、学徒が益々増えた。世祖即位後、再び聘され清要の職に処そうとしたが、冶は老病を理由に懇ろに山に帰ることを求めた。至元二年(1265年)、再び学士として召されて就職したが一か月余りで再び老病により辞して去り、家で卒した。享年八十八。著書に敬齋文集四十巻、壁書藂削十二巻、泛説四十巻、古今難四十巻、測圓鏡海十二巻、益古衍疑三十巻がある。