出自と対宋戦功
- 鄭温、真定霊寿の人。初め中書鈕祜禄納罕の南征に従い功を立て哈必斉千戸となる。丞相史天沢に従って新軍万戸鎮撫となり、憲宗の西川征討では温は四か月間甲を脱がなかった。天沢がその功を見て帝に申し述べると、帝は「朕自ら見た」と言い伊克巴図の名を賜り鞍勒を賞した。閬州に還り旨を奉じて軍を分け釣魚等の山を守り、天沢は温に命じて四千人を率いて釣魚山で警邏させた。
- 中統元年、金虎符を佩びて総管となる。三年、李璮が叛くと詔で温は軍を率いて還り討伐、済南に至り大軍で城を包囲した際、賊将楊巴図らが夜襲して営を破ったが、温は力戦し夜明けまでに賊は退いた。諸王哈必斉・丞相史天沢はこれを厚く賞した。七月城が破れると、温に兵三千を率いて益都平定に赴かせ、その功で再び上賞を受けた。侍衛親軍総管に任命される。
- 至元六年、懐遠大将軍・右衛副都指揮使に進む。九年、詔で温に蒙古・漢人・女直・高麗の諸部軍一万を渡海させ耽羅を征討させて平定した。十二年、右衛親軍都指揮使に陞り三衛軍一万を率いて岳州・江州・沙市・潭州を攻め功を立て、平章阿爾哈雅は銀十錠を賞した。十四年、入朝して昭勇大将軍・枢密院判官に遷る。十八年、輔国上将軍・江淮行省参知政事に改められ、杭州の民が飢えると米二十万石を放出して糶させた。まもなく常州の官田三十頃を賜る。
- 二十二年召還され、二十三年江浙左丞に陞り、新附の漢軍一万五千で淮安の雲山泉塘に屯田を立てさせられる。二十八年卒した。年八十一。子の欽は利用監丞、釭は榷茶都運使、銓は右衛親軍千戸、鏞は袁州路判官となった。