出自
- 史天倪、字は和甫。燕の永清の人。曽祖倫は少年時代から侠気があり、掘り出した金で家塾を興し困窮者を救済し、飢饉時には八万石の粟を放出した。祖成珪は乱世に家財を散じ、父秉直は読書と義気を重んじた。
- 癸酉年(1213年)太師国王穆呼哩の南征に際し、秉直は「今の国難に一族百口をどう守るか」と考え里中の老幼数千人を率いて涿の軍門に降った。穆呼哩は秉直の登用を望んだが辞退し、代わりに子の天倪を万戸に推薦、秉直自身は降人家属の管領を担い、多くの民の飢饉を救った。
穆呼哩配下としての快進撃
- 天倪は生誕時に白気が庭を貫いたと伝えられる異相の持ち主で、幼少より学を好み千言を暗誦したが科挙に落第すると武功を志した。穆呼哩に認められ万戸として降卒を統率し、遼水東西を「金の腹心の地」と看破し大寧攻略を進言、清楽社の壮士一万を義兵に組織し従兄天祥を先鋒とした。
- 太祖に謁見して信任され、金符・馬歩軍都統・二十四万戸の管領を授かり、高州・北京・平州・真定を次々攻略。真定帥武仙が降伏すると天倪は河北西路兵馬都元帥に、武仙は副に任じられた。掠奪を禁じる軍紀を確立し「王者は民のために暴を除くべき」と穆呼哩に進言、承認を得た。
- 懐州・潞州・澤州の金将らを降し、河東・山西の砦を次々攻略。哈達布哈との共同作戦で捕虜となった厳実を伏兵で救出、真定に帰還した。
武仙の裏切りによる非業の死
- 甲申年(1224年)夏、彭義斌の宋軍侵攻を恩州で撃退したが、まもなく武仙配下の残党が西山の腰水・鉄壁二砦で叛くとこれを掃討した。武仙は謀反を企て天倪を宴に招いたが、周囲の制止を聞かず赴き殺害された。
- 父秉直はかねて「武仙の言動は最終的に我らに従わないだろう」と警告していたが、天倪は「私は赤心で人に接している、天は必ずそれを見捨てまい」と応じた。撃鞠から夜帰る際に大星が馬前に落ちる不吉な予兆があったという。享年三十九。妻程氏は賊に汚されることを恐れ自殺し、五人の子のうち三人も難に死んだ。楫・権のみが生き残った。
史楫――父の遺志を継ぐ
- 楫、字は大済。己亥年(1239年)中山府事、征南行軍万戸を経て蘄黄経略を担当、壬寅年(1242年)天澤の推挙で太宗に謁見し官職を弟に譲る形で真定兵馬都総管を継いだ。太宗は「官を争う者は多いが譲る者は少ない」とこれを称賛した。
- 包銀の徴収を銀と物の折衷で軽減させ、銀鈔相権法を提案して商業の混乱を防いだ。塩の配給を戸籍に基づき強制する議論には反対した。元氏の民の冤罪事件では極刑を緩和させ、中統元年(1260年)真定路総管同判本道宣撫司事として善政を敷いた。天澤の「兵権と民権を一族が併せ持つべきでない」との進言に応じ自ら職を解いた。享年五十九。子は炫・煇・燧・煊・煬。
史権――南征の名将
- 権、字は伯衡。勇猛かつ謀略に富み、壬子年(1252年)天澤の代理として河南経略使を担い、甲寅年(1254年)鄧州に屯し宋将髙達を樊城で破った。己未年(1259年)世祖の伐宋に淮西で従軍、憲宗崩御に伴う世祖の北還後は江北の武磯山を守った。
- 至元六年(1269年)征南策を献策し「襄陽の藩蔽たる樊城をまず落とせば襄陽も自壊する」と進言、七年(1270年)荆子口で宋軍を大破、隨における糧道確保戦でも連勝した。真定等路の総管兼府尹として東平・河間に移り没した。
史樞――憲宗・世祖朝の武功
- 樞、字は子明。父天安(字全甫)は秉直の次子。癸酉年(1213年)秉直の投降に従い、兄天倪の万戸就任に伴い軍中に質として留められた。錦州の張致の乱、闗右での張資禄(張鉄槍)捕縛など武功を重ね、武仙の天倪殺害後は天澤と共にこれを敗走させ、北京元帥府事として真定を撫治した。
- 内応工作の誣告事件を自ら審理し真相を暴いて処断、金討伐や梁満・蘇傑の盗賊討伐にも従軍。甲午年(1234年)真定等路万戸、乙卯年(1255年)漢水の鴛鴦灘で宋の舟師を破り金虎符を賜った。
- 戊午年(1258年)憲宗の蜀征討で先鋒として苦竹崖の険阻を偵察し攻略に成功、皇后から酒を賜る破格の栄誉を得た。己未年(1259年)天澤に従い嘉陵江で宋将呂文徳を破り追撃。中統二年(1261年)扈従北征、三年(1262年)李璮の乱では済南攻城戦で葦の松明を用いた夜襲を成功させ璮を捕縛に導いた。
- 至元四年(1267年)開達諸州の左壁総帥として河南・山東等の軍を統べ宋軍を撃退。六年(1269年)髙麗の金通精の珍島反乱討伐にあたり、七年(1270年)鳳州経略使として炎暑・海気の中を潜行奇襲し賊の根拠地を撃破。十二年(1275年)丞相巴延の伐宋に従い、宋平定後は安吉州安撫使として新附の民を招撫した。二十四年(1287年)没、享年六十七。子は煥・煇。