元史卷百四十七 列傳第三十四 張柔

出自と挙兵

  • 張柔、字は徳剛。易州定興の人で世々農業を営んだ。慷慨で気節を尚び騎射に優れ、豪侠の士として知られた。金の貞祐年間(1213~1217年)、河北で盗賊が蜂起すると、族党を率いて西山東流寨に立て籠り、壮士を集めて自衛し盗賊の侵入を防いだ。
  • 郡人張信が張柔の声勢を借りようとして流民の女を妻に迎えさせたが、張柔がその女を鞭打ったため信は恨みを抱き徒党を組んで害そうとしたが失敗、逆に信が罪に問われた際は張柔が救った。この寛容さから多くの驍勇の士が慕い集まった。
  • 中都経略史苗道潤の承制により定興令に任じられ青州防禦使に累進、道潤の推薦で昭毅大将軍・永寧軍節度使・雄州管内観察使を兼ね、元帥左都監として元帥府事を代行した。

道潤の仇討ちと太祖への帰順

  • 道潤が副将賈瑀に殺されると、瑀は使者を送って「あなたが援兵を出さなかったから道潤を除けた」と告げたが、張柔は激怒し「瑀の肉を食らってもなお足りない」と使者を叱責、道潤の部曲に檄を飛ばし易州軍市川で復讐の誓いを立てた。道潤の旧部下何伯祥が道潤の金虎符を献じたことで張柔が経略使事を代行することとなり、驃騎将軍・中都留守兼大興府尹・本路経略使・行元帥事に任じられた。
  • 太祖の軍が紫荊口に出ると、張柔は狼牙嶺で迎え撃ったが落馬して捕えられ、そのまま帰順した。太祖は旧職をそのまま安堵し便宜行事を許した。張柔は部曲を招集して雄・易・安・保諸州を攻略し、孔山で賈瑀を誅して心臓を抉り道潤を祭った。瑀の一党郭収も投降し、治所を満城に移した。
  • 金の真定帥武仙が数万の兵で攻めてきたが数百の兵で奇襲し大破、完州を攻略した際、州佐甄仝が降伏せず処刑されようとしたが張柔はその義気を評価して釈放し、部下として重用した。

武仙との激戦

  • 武仙は再度攻めてきたが敗走させ、郎山・祁州・曲陽の諸城寨を攻略。中山が叛くと包囲し、新楽での激戦で顎を負傷しながらも斬首数千、藁城令劉成を捕らえて中山を攻略。武仙が満城を攻めた際も流矢を受けながら動じず、突撃して敵を敗走させた。
  • 鼓城への単騎入城による説得降伏、祁州・深澤・寧晋・安平の攻略、易州の反乱鎮圧など各地を平定し、深冀以北・鎮定以東の三十余城、千余里の土地を開拓した。一月の間に武仙軍と十七度交戦し、いずれも勝利を収め、栄禄大夫・河北東西等路都元帥(号巴図爾)に任じられた。
  • 燕帥徹辰台の讒言で中都行台に幽閉され殺されかけたが、徹辰台が一夜のうちに急死したため難を免れた。金の経略使固安王子昌や信安張進を捕らえ、乙酉年(1225年)真定の武仙が帥史天倪を殺した際は救援を送り武仙軍を撃破した。

汴京攻略と金の滅亡

  • 保州鎮守を任され、荒廃した保州の市井を整備し民居を定め、泉を引いて商業を振興させ殷富の地とした。壬辰年(1232年)睿宗の金征討に従い「非戦闘員を殺さぬ」と誓い、汴京を包囲。金軍の反撃を単騎で幾度も撃退し、金主の黄陵岡渡河・衛州侵攻を阻止して睢陽まで敗走させた。
  • 崔立が汴京を金帛と共に献じた際、張柔は金帛には手を付けず史館から金の実録・秘府図書を収集し、王鶚ら耆徳・故族十余家を燕へ護送した。睢陽包囲、汝南攻略では孟珙の淮河水攻めに合わせ突撃、金主の自殺で金は滅亡。汝南陥落後の屠城命令に際し、状元王鶚を見出して助命し賓礼で遇した。
  • 太宗に戦功を評価され金虎符・軍民万戸に昇進。以後、皇子庫春の棗陽攻略、大帥塔心の徐邳攻撃に従軍し、丁酉年(1237年)曹武屯兵の際は自ら険地の九里関を突破し、宋軍の包囲を単騎で切り抜けた。

宋との攻防と晩年

  • 光州・黄州攻略、沿江での夜戦での勝利、滁州攻防での負傷(宋将に鼻を打たれる)と奮戦、鞏彦輝による夜襲で城を陥落させるなど戦功を重ね、河南諸翼兵馬征行事、順天府(保州昇格)長官として金実録や名馬を賜った。
  • 河決対策として杞の三山を連結する城壁・浮橋を築いて敵の侵入を防ぎ、憲宗即位後は亳州鎮守として橋梁を築き商業を振興、孔子廟を建てて教育を興した。呉爾佳顕祖の誣告事件では大臣たちの弁護で冤罪が晴らされた。
  • 世祖の鄂州攻略に従い、鵝車洞での攻城戦を指揮。憲宗崩御に伴い世祖が北還、中統元年(1260年)世祖即位で班師、額呼布格反乱時には子の宏慶を人質に出して京師防衛に協力した。至元二年(1265年)致仕を願い安粛公に封ぜられ、第八子宏畧に職を継がせた。至元五年(1268年)六月、享年七十九で没し、推忠宣力翊運功臣・太師開府儀同三司上柱国・蔡国公を追贈、諡は武康。延祐五年(1318年)汝南王・忠武と加封された。子は十一人、宏畧・宏範が最も顕著で宏範は別伝がある。

張宏畧――李璮討伐と地方統治

  • 宏畧、字は仲傑、張柔の第八子。謀略に長け騎射に優れ、乙卯年(1255年)憲宗に入朝して金符を授かり順天万戸を権知、蜀征討にも従った。柔の致仕後、金虎符・順天路管民総管行軍万戸を継ぎ、亳を含む諸路の軍を統括した。
  • 中統三年(1262年)李璮の反乱に呼応した宋将夏貴が亳・滕・徐・宿・邳・滄・濱七州と新蔡等四県を奪うと、渦口で阻止し亳軍で焼き討ちを行い夏貴を撃退、失地を回復した。李璮誅殺後、宏畧が璮と交わした書簡が忠義を勧める内容であったことから朝廷の疑いを免れたが、諸侯の兵民権を分離する政策により宏畧は兵職を解かれ宿衛に召された。
  • 大都城壁の築造を父と共に担当、淮東道宣慰使、江西宣慰使として饒州の反乱を鎮圧、貴臣子の江南買田事件に連座して疑われた際も自らを弁明せず沈黙を貫き、亳で二十九年間を過ごした。世祖に召され子玠の出仕を願い出て、河南行省参知政事に任じられた。元貞二年(1296年)没、推忠佐理功臣・銀青栄禄大夫平章政事・上柱国・蔡国公・忠毅の諡を追贈された。子は玠・瑾・琰の三人。