元史卷百四十六 列傳第三十三 楊惟中

西域使節と中原統治

  • 楊惟中、字は彦誠、弘州の人。金末に孤児として太宗に仕え、二十歳で西域三十余国への使節として国威を宣揚し、戸口帰属を整備して帰還、太宗に重用された。皇子庫春の伐宋に軍前行中書省事として従い、棗陽・光化・郢・襄陽・徳安府など多くの城を攻略し、伊洛の書を燕都に運び周敦頤祠を建て太極書院を創立、趙復・王粋ら儒者を招いて講学した。
  • 中書令となり、太宗崩御後の太后称制期を経て、定宗即位後は平陽道断事官希産の横暴を誅殺。金滅亡時の武仙の残党が大明川に拠って開興年号を称した反乱を招諭で平定した。
  • 憲宗即位後、世祖が金蓮川に開府すると河南道経略司の使として唐鄧申裕嵩汝蔡息亳潁諸州の屯田を統括。河南道総管劉福の暴政を武力で制裁して河南を大いに治め、陜右四川宣撫使として横暴な将軍郭千戸も誅殺し「良民を害する者を除かねば綱紀は立たぬ」と語った。
  • 己未年(1259年)江淮京湖南北路宣撫使として世祖の東師に従い先鋒として行台を建て恩信を宣布、蒙古漢軍諸帥を統率したが、師が還る途中蔡州で病没した。享年五十五。中統二年(1261年)忠粛公と追諡された。