太宗朝の左丞相
- 鈕祜禄珠順、金源の貴族で、元初に人質として遣わされ金の衰亡を見て元に帰属した。太祖から馬四百匹を賜り宿衛官筆且齊(ビチェチ)として諸国平定に従軍、涼州攻略では流矢を受けても旗を持ち六軍を指揮し続けた。
- 帝への諫言「天子は天下を憂うべきもの、宴楽は忘憂の術に過ぎない」を評価され、中書省設立時に積勲により左丞相となった(右丞相は耶律楚材)。宋討伐の軍前行中書省事として江淮州郡三十余万の民を降し、二邑を無傷で平定した功で太尉・魏国公を追贈され諡は忠武。
珠順の子納罕――行軍中書省事
- 子の江淮安撫使納罕は父の後を継いで軍前中書省事となり、寿春攻略で屠城を主張する将軍察罕に「不降の責任は守将のみ、民に罪はない」と説き民を救った。世祖の伐宋計画に対し李璮の反乱を予見し警戒を促した。
- 中統元年(1260年)宣撫使、翌年中書右丞、中興等路行中書省事、秦蜀五路四川行中書省事を歴任し李璮の乱を予言通り的中させた。中書平章政事に至り、至元四年(1267年)病没、魏国公・諡宣昭を賜る。子の博衮徹爾は河中府知事となった。