剛正な廷臣
- 琳沁巴勒、西夏人。父安巴は世祖に忠勤を尽くし知樞密院事となった。琳沁巴勒は剛正で礼法を重んじ、仁宗の命で宿衛に入り、延祐六年(1319年)翰林侍講学士中奉大夫に抜擢された。同知通政院事、虎符唐古親軍都指揮使、典瑞院使、太子家令、同知樞密院事、侍御史などを歴任。
- 至順初年(1330年頃)翰林学士承旨栄禄大夫、功徳使指揮使、陝西行省平章政事(未赴任)を経て再び翰林学士承旨。元統至元年間(1330年代)、巴延が丞相として専権していた頃、諂わなかったため江南行臺御史大夫に左遷され、子の達爾瑪を殺され海南に流されたが、巴延失脚後召還された。
御史大夫として
- 至正六年(1346年)光禄大夫御史大夫となり、中外の廉能な官を風憲の職に選び「一時得人と称された」。宣政院使、甘粛行省平章政事として西羌の乱を鎮め、石碑を立てて頌された。銀青栄禄大夫知樞密院事・太医院提調、金紫光禄大夫、御史大夫兼宣忠烏魯斯扈衛親軍指揮使を歴任。
- 風俗が薄くなっていることを憂い、故吏が仕える官長を弾劾できない慣習の改正を求めた。太師満済勒噶台とその子丞相托克托が謫居中、時の権臣がこれを陥れようとした際、琳沁巴勒は「宰相たる者に閑退はつきもの、托克托父子に大過はない」と反対した。経筵で時相の不法を繰り返し諫めたことで帝の不興を買い、江浙行省平章政事に左遷された。
江西での軍功と晩年
- 湖廣行省左丞相、知樞密院事を経て、至正十一年(1351年)潁亳の兵乱で朝廷軍がしばしば敗れる中、時相に献策したが用いられず、再び江浙行省左丞相に左遷。十二年(1352年)江西行省左丞相として、蘄黄から饒州に及んだ妖賊の乱に対し、投降者には賞を与え、従わない者は子の哈喇多爾濟や江西左丞和尼齊と共に火攻めで撃退した。
- 前任の平章政事道通の寛容な政治で緩んでいた軍民の風紀を一新し、群盗が帰順を望むほどの威勢を示した。十四年(1354年)八月、任地で病没。追贈は推忠佐運正憲秉義同徳功臣・斉王、諡は忠献。子は九人あり、達爾瑪・布達実哩(翰林学士承旨知制誥兼修国史)・僧格巴勒(同知青海宣慰司事)・哈喇多爾濟(宣政院使)・僧格達実(嶺北行省平章)・沙克嘉実哩(嶺北行省参政)・伊納克実哩(大宗正伊克扎爾古齊)・満達実哩(僉書樞密院事)・満拉実哩(内八府宰相)。