元史卷百四十四 列傳第三十一 道通
江西守備の苦闘
- 道通、高昌人。自号を石巌。深沈寡言で、世胄として直省舎人から信州路総管、平江路総管を歴任し善政を称された。至正元年(1341年)大都路達嚕噶齊、江浙行省参知政事、中書参政、江浙行省右丞・平章政事を経て江西行省平章政事となった。
- 蘄黄の賊蜂起に際し、致仕していた章巴延を左丞として招き軍務を委ねたが、湖廣陥落に伴う塔奇勒布哈の敗走や賊の江州陥落に道通は動揺し、一度は印を懐に逃走したが数日後に南昌から戻り分守の計を整えた。城内の民衆を鼓舞し、死士による夜襲で賊を敗走させ、章巴延・布延布哈の功も大きかった。
撫州での最期
- 江西行省左丞相琳沁巴勒・左丞和尼齊とともに富州・瑞州を平定し、大旱の際には江浙から米・塩を借り入れ民を救った。
- 至正十八年(1358年)四月、陳友諒が再び江西を攻めると、和尼齊は道通と不和で密かに逃亡、道通も城を捨てて撫州路に退いた。「元朝の大臣として城を守れなかった、どうして人に会えようか」と嘆きつつ賊の追撃を迎え撃とうとしたが、渡河中に討たれた。朝廷は諡を忠烈と定めた。