元史卷百四十三 列傳第三十 䇿丹

剛直な監察御史

  • 䇿丹、蒙古人。英宗朝に舒庫爾齊から監察御史に抜擢され、大興県の冤罪事件で真相を見抜き、後に別の官吏が処刑した被告の無実が発覚し明察と評された。
  • 泰定二年(1325年)参知政事楊廷玉の贓罪を弾劾し続け、平章政事図們岱爾の英宗弑逆への関与を疑って弾劾したが不問とされたため辞職。開渾河の工事は「水性不常、民力疲弊」として中止させた。
  • 三皇后の崩御に伴う殿舎新造で「無実の後宮を粗略にすべきでない、旧殿を使うべき」と諫め帝を悦ばせた。太皇太后の号の可否について「英宗の孫にあたる今上には太皇太后と称する資格がない」と正論を述べ議を定めた。
  • 文宗即位後、江浙行省への使者の讒言による誅殺の動きを丞相雅克特穆爾に諫めて止めさせ、太保巴延の王封には反対し、文宗の西湖遊覧を諫めて随行を拒んだ。
  • 福建都転運塩使、浙西粛政廉訪使などを歴任し、駙馬の宦竪の横暴を取り締まった。太師巴延の指示で寧夏の謀反疑惑を調べ無実と結論すると、巴延の怒りを買いながらも責任を一人で負う姿勢を貫き、同知徽政院事に左遷された。四朝に仕え剛直な人柄を貫いたが、権貴に忤い重用されなかったことを人々は惜しんだ。