元史卷一百三十九 列傳第二十六 努都爾噶

努都爾噶

  • 努都爾噶は博爾濟の四世孫。早くから宿衛に備え累遷して同知枢密院事となったが、まもなく罷めて家に処った。順帝の後至元五年(1339年)、達勒逹の地に宣撫の使いを奉じ、有司の不公不法な事三十余条を整理し、これにより朝廷はその才を知り知嶺北行枢密院事に陞った。至正十五年(1355年)、召されて中書平章政事を拝し知枢密院事に遷り、十七年(1357年)、太尉として山東諸軍を総べ東昌路を守鎮し田豊の兵を撃退した。十八年(1358年)、田豊が再び済寧を陥落させ東昌に逼ると、努都爾噶は糧が乏しく城を棄て柏郷に退屯し、東昌はついに陥落した。京師に還ると中書添設左丞相を拝し太平と相位を共にした。努都爾噶は識量があり事を処すに平允であった。倭人が金・復二州を攻め紅軍を殺しその州署を占拠したとき、人を遣わし賞賚を奏して撫安した。浙西の張士誠が既に降ったとき、努都爾噶が江南の諸事を処置しいずれも適切であったため士誠は大いに服した。興和路の富民が子の嫁を調戯した事件で獄に繋がれ楮幣を車に載せ京師に至り賂を行ったため刑部官がその事を持して久しく決しなかったが、努都爾噶は刑部侍郎を除し興和路ダルガチとしてその事を決させると富民は自ら縊れて死んだ。官を授けるのに才を選ぶのみで私人を用いず、衆はその大臣の体を有すると称した。まもなく相を罷め知枢密院事に遷った。かつて臥病した際、その知る者に「太平こそ真に宰相の才がある、私の病は固く起きられそうにないが、太平もまた久しく位にいられないだろう、これは歎かわしいことだ」と語った。朝官が門に候疾に来ても皆謝絶した。二十年(1360年)正月、卒した。