奈曼台
- 奈曼台はモクリ(穆呼哩)の五世孫。曾祖は博囉、祖はアルジス(追封莒王、諡忠恵)、父は和斯和哩で国王を嗣ぎ薊王を追封された。奈曼台は身長七尺、摯静で威があり、明果で決断に優れ、射は札を貫くほどだった。大徳五年(1301年)、命を奉じ海都・都勒斡を征し功により貂裘・白金を賜わり宣徽院使・栄禄大夫を授かった。七年(1303年)、嶺北行省右丞を拝した。旧制では民から糧を募って辺に飨するもので、この年募集された者は三十万石であったが、事を用いる者が私を挟んで市を作りその数を十万に殺していたため民は進退窮まった。奈曼台は朝廷に「輸した者の分はすべて受け取り、翌年の分に充てるように」と請い、民はその徳に感じた。
- 至治二年(1322年)、甘粛行省平章政事に改まり金虎符を佩びた。甘粛は毎年蘭州で糧を糴すること多くて二万石に及び、寧夏まで千余里、甘州に至りさらに千余里を経てようやく額齊訥路に達したが、寧夏から額齊訥までは千里に過ぎない。奈曼台は輓する者に寧夏から直接額齊訥に向かうよう命じ、毎年六十万緡の経費を省いた。天暦二年(1329年)、陝西行省平章政事に遷った。関中が大飢饉になると民に粟を入れれば爵を授けるとの詔が出て、四方の富民が命に応じ粟を関下に露積させたが、初め河南が飢饉になり関中に糴を告げたのに関中の民がその糴を遏めたことがあり、この時、関吏が河南人でその宿怨を修めようとして粟を拒み入れさせなかった。奈曼台は関吏を杖で罰し粟を入れさせた。京兆の民が人を掠めて食う事件があると、健卒を分けて隊とし強いて人を食う者を捕らえさせその患いはついに止んだ。当時、関に入った粟は多かったが貧民には糴に用いる鈔がなかったため、奈曼台は官庫の焼け残った昏鈔(古い破損した鈔)を取り出し五百万緡を得て、省印を識してこれを民に流通させ、後に官が賑饑の鈔を数の通り換えることとした。
- 以前、民の一部は他所に食を求めに行き牆屋を毀して往くことが多かったが、奈曼台は「来年は豊作になる、お前らは戻ってくるのだから毀すな」と諭し、民はこれにより毀さず、翌年戻ると按堵(安住)できるようになった。西行台御史大夫を拝し金幣・玩服等の物を賜わり、太宗皇帝の旧鋳した皇兄の宝をその後嗣ヤンズ済逹に送る命を奉じた。奈曼台の威望は素より厳しく、その境に至ると礼貌はますます尊ばれた。至順元年(1330年)、上都留守に遷り元降の虎符・虎賁親軍都指揮使を佩び開府儀同三司に進み知嶺北行枢密院事を進み宣寧郡王に封じられ金印を賜わり、まもなく北辺の鎮守に出るよう命じられ、恩賜は特に重かった。国初、諸軍が万戸・千戸・百戸を置いたとき、金銀符がまだ備わっておらず槍に纓を加えて等級を示していたが、この時、奈曼台は朝廷に請い皆符を綰する(受ける)ことができるようになった。後至元三年(1337年)、奈曼台に国王を襲がせる詔が出て金印を授けられ、さらに安辺睦鄰の功により珠絡半臂及び海東名鷹・西域文豹を賜わり国制でこれを極めての恩とした。
- 六年(1340年)、嶺北行省左丞相を拝しなお前の国王・知行枢密院事はもとの通り。至正二年(1342年)、遼陽行省左丞相に遷り、年が六十を越えたことで上疏し職を辞し、麦四百石・馬二百匹・羊五百頭を軍士の貧乏な者に遍く給した。八年(1348年)、家で薨じた。帝はこれを聞き震悼し有司に厚く賻儀を致すよう命じ、詔して攄忠宣恵綏遠輔治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を贈られ魯王に追封、諡は忠穆。子は二人、長子の額森布哈は宿衛に入りシュクルチ(舒庫爾齊)を掌り朝列大夫・給事中を授かり監察御史を拝し、河西廉訪副使・淮西宣慰副使を歴任し累遷して中書参知政事となり御史中丞から中書右丞となった。次子は鴻和爾布哈。