塔爾海特穆爾
- 塔爾海特穆爾は塔塔爾岱の人。その先祖は太祖の時、国王モクリ(穆呼哩)に仕え左手大万戸配下の蒙古軍を率いて太原以西八州を鎮め、金将王公佐の軍を破りこれを斬った。陝右攻略・河西征討・金滅亡に功があり、種田戸二百七十を賜った。曾祖の特穆爾克は都元帥塔爾海甘布に従い蜀を征して興元で卒した。祖の扎拉岱がその後を嗣ぎ扎拉岱が卒すると、父の拜達勒はなお幼く、従祖の扎里・達珠が相次いで職を襲った。扎里は都元帥達勒達に従い蜀を征し、二百の兵で宋軍を巴州で破り首三百級を斬り生け捕り五十余人。達珠は西州行枢密院の檄により兵三千で碉門を救援し、宋軍を大敗させ首三百余級を斬り百余人を捕虜として帰った。拜達勒は成長すると父の官により行省イスダイに従い建都を征討し軍中で死んだ。塔爾海特穆爾は父の職を襲い、初め行院フトンに従い嘉定を包囲し降し、重慶を包囲したときは守将張珏が出撃してきたが、塔爾海特穆爾は力戦して陣を陥落させ功が最も多かった。十五年(1278年)、二百の兵で宋軍を白水江で破り戦船一隻を奪い十三人を捕虜として帰り、宣武将軍・管軍総管に陞った。イスダイエルに従い亦奚不薛を征し、また都掌蛮征討に従い、いずれも先鋒として殺獲甚だ多かった。九溪蛮の散猫・大盤蛮尚未的世用等が叛くと、行省のチルギスに従いこれを討ち、酋長頭狗等を殺した。イスダイエル・ヤルハが兵一万を率い雲南兵と会し烏蒙蛮を討ち閙竈に至った際、酋長阿蒙が五百余の衆で麻布蛮の地へ奔ったが、塔爾海特穆爾は四百人で山箐まで追撃し大破し阿蒙を生け捕りにして帰った。二十六年(1289年)、再びイスダイエルに従い西征したが、その後の消息は不明。