達春
- 達春は保喇の子。幼くして父を失い、成長して騎射に優れた。至元元年(1264年)、世祖に仕え応対がしばしば帝の意に適い、宝貨衣物を賜った。四年(1267年)、察罕の食邑の賦税の半分を給せられ、俘虜となっていた逃亡戸三十七戸も返還された。金虎符を授けられ招勇大将軍・山東統軍使となり、莒・密・膠・沂・郯・邳・宿・即墨等の城を鎮め、防備を厳にして宋人が北に向かえないようにした。
- 九年(1272年)、統軍司を行枢密院に改め、僉枢密院事に転じた。淮に沿う堡塞を攻略し漣海の地を切り取り人畜万を得た。宋人蔣徳勝の投降に際し賞賚を加えるよう上表し、黄金五十両とその倍の白金が賜られた。十年(1273年)、淮西等処行枢密院事に転じ、正陽に築城して淮海の諸州の兵を扼した。宋の陳奕が安豊・廬・寿等州の兵で頻繁に妨害したが、達春は精鋭を選んで日に十数戦し陳奕を敗走させ、正陽の築城を果たした。宋が六安で戦艦を造り正陽を攻めようとすると、達春はこれを知って騎兵でその艦を焼いた。糧道が続かず険を出て安豊の麦を奪って軍に供した。宋兵が横河口に陣を築くと、達春は奇兵でこれを大破した。
- 十一年(1274年)、朝議で「淮上諸郡は宋の北の藩、城堅く兵精しく力攻めは軍を疲弊させるだけ。先に渡江してその根本を断ち、淮甸に留兵して救援を絶てば長江も虚に乗じて渡れる」との策が決まり、達春を鎮国上将軍・淮西行省参知政事とし安豊・廬・寿等州を攻めさせ、生口万余を献じた。曹州の官園を邸宅に賜わり、城南の閑田を牧地に給せられた。宋の夏貴が舟師十万で正陽を囲み淮水を決して城を灌ぎほとんど陥ちかけたとき、達春は救援に赴く途上、潁州を攻める宋兵に遭遇、暑さの中で公庫の弓矢を出して市人を駆り戦わせ、潁の北関を予め手薄と見て民を城に入れ備えさせた。その夜、宋人は果たして北関を焼いたが、達春は闇中から矢を射かけ宋軍を潰走させ、沙河で大破し溺死者は数え切れなかった。翌日、正陽まで長駆し、霖雨のため堅く壁を守った後、右丞アンタハと兵を分けて淮を渡り、宋軍を大潰させ数十里を追撃し数千級を斬り戦艦五百余艘を奪って正陽の囲みを解いた。
- 達春は上奏して賞罰を明らかにするよう説き、帝はこれを容れ差をつけて頒賞した。秋八月、淮西行省が再び行院となり、達春は淮を渡って廬・揚の間に屯した。十二年(1275年)、丞相バヤンに従い舟師で宋軍と戦って大破し、宋臣賈似道は揚州へ奔った。分兵して四出し池州を克し太平を取り、流れに沿って建康・丹徒・江陰・常州が次々と降った。揚州が未だ帰順しない時、諜報で揚州軍が丹徒を夜襲すると告げられ、守将が救援を求めた。達春は伏兵を設けて待ち、揚州軍が果たして夜に来襲すると西津で邀撃し多くを殺獲した。入朝して玉帯を賜わりその功を旌された。淮東左副都元帥に授けられ、金虎符を佩びた。十三年(1276年)、通奉大夫・参知政事に加えられ淮西行中書省事を領した。沿淮の新附の諸州で侵掠を禁じ、傷ついた民を撫し士卒を練り、姦宄に備え、境内は安定した。まもなく江西都元帥に遷り広東を征し、恩信を布いて溪峒が帰順し広東は平定された。十四年(1277年)、双虎符を加賜され江西宣慰使となった。宋の益王昰・広王昺が嶺海に逃れると江西宣慰司は改めて行中書省とされ贛州に治を移し、達春は資政大夫・中書左丞・行中書省事となった。十五年(1278年)、二王の事で朝廷に召され、帝が張弘範・李恒に総兵させ討伐させる間、達春は残って軍費を供給した。当初、江西平定直後、帝が城を隳すよう命じたが、達春は「豫章の諸郡はみな江に瀕して城を築いており、洪水の際は城なくば必ず溺没する」と表して不可を訴え、帝はこれに従った。
- 帰順したばかりの地で謀叛を企てた者が捕らえられたとき、達春は同僚に「撫治の誤りが招いたこと、その中に誤って巻き込まれた者もあろう。首謀のみを誅し残りは釈すべき」と述べた。瑞州の張公明が左丞呂師夔の謀反を訴えたが、達春はその誣告を見抜き、「もし曖昧なまま朝廷に聞けば大獄が起こり無辜を巻き添えにする。師夔は既に宰相の職にあり狂妄な事をするはずがない。だが遅疑すれば彼が驚き別の謀を生みかねない」として張公明を斬ってから上奏した。帝はこれを是とした。十七年(1280年)、入覲し慰労を受け、再び江西行省を命じられたが、まもなく病により京師で卒した。時に年三十七。妻の黙哷氏は貞節を称され門閭を旌された。二子、長子の咱雅は爵位を襲い中奉大夫・江西宣慰使となり、次子の賔咱雅は征東行中書省左丞に至った。妻の雅爾㤗は安郡武穆王博囉罕の女で、これも守義賢行を称された。