仏教外交の功
- 嘉魯克鼐達実は輝和爾人。天竺教と諸国語に通じ、翰林学士承旨安藏扎雅爾達実の推薦で世祖に召され、国師と共に法を講じさせられた。国師は西畨人で言語が通じなかったため、帝は嘉魯克鼐達実に国師からその法と言語・文字を学ばせ、一年でみな通じた。輝和爾字で西天・西畨の経論を訳し帝に進めると帝はこれを板刻し諸王大臣に賜った。
- 西南小国の星噶爾徳威ら二十余種が来朝した際、嘉魯克鼐達実が帝前でその国の事情を奏し諸国が驚服した。朝議が暹国・羅斛・馬八児・俱藍・蘇木都剌の諸国征討を議した際、「これらは蕞爾たる小国、得ても益なく、兵を興せば民を残なうのみ、使いを遣わし禍福を諭せば戦わずして服す」と奏して帝はこれを納れ、巴爾瑪努斯特黙らを使いに遣わし二十余国が降った。
- 至元二十四年(1287年)丞相僧格が翰林学士に推挙を奏した際、帝は「嘉魯克鼐達実の官はお前が奏すべきものではない」と述べ、その後翰林学士承旨中奉大夫に擢用、成宗を潜邸に侍り節飲を戒めた。成宗即位後は忠を思って榮禄大夫大司徒に遷り、老いを憐れんで車での入殿を許された。仁宗即位後、冗官の淘汰が議されたが嘉魯克鼐達実は司徒として留任し開府儀同三司を加えられ玉鞍を賜り、同年八月卒去。