元史卷一百三十四 列傳第二十一 唐仁祖

僧格政権下の直臣

  • 唐仁祖は字は寿卿、輝和爾人。祖の唐古直の代から唐を氏とした。輝和爾の帰順に際し、唐古直は十七歳で太祖に給事し睿宗にも属したが未及用のうちに莊聖皇后が扎爾古齊に擢用した。父の驥は豪爽で射猟を好み、世祖即位後に裕宗潜邸の筆且齊、後に達嚕噶齊に陞る。唐仁祖は幼くして頴悟、父の没後は母が読書を教え諸方の言語に通じ音律にも精通した。中統初年、諸貴胄が質子として集められた際、帝は唐仁祖を見て「唐古直の孫か、聡明なのも当然だ」と述べ、国字を習わせた。
  • 至元六年(1269年)中書省で蒙古掾に選ばれ、十六年(1279年)平陽の囚人を録し十七人の冤罪を免死させた。十八年(1281年)翰林直学士。真定・保定両路の錢糧逋負が長年決着しないのを唐仁祖が閲すると中統の旧案と判明し即座に罷免を奏した。工部侍郎、中書右司郎中、参議尚書省事を経て、丞相僧格の専権下で唐仁祖は論議を曲げず度々忤ったが動じなかった。工部尚書に遷ると僧格は敢えて煩雑な曹務を課したが唐仁祖は平然と処理した。雲中への使い中、僧格が織課の緩慢を怒り駅騎で追い返して丞相府で工事の督促を厳命し「期限に遅れれば法に従う」と脅すと、唐仁祖は諸署長を集め「丞相の怒りは我にあり汝らにはない、恐れず力を尽くせ」と諭し、皆感激して昼夜に功を倍加させ期限前に完成させた。まもなく僧格が獄に繋がれた際、唐仁祖はその家を籍するよう命じられ、翌日僧格は左右の助力で釈放されたが、周囲の者は「怒虎の威を再び犯せるか」と垣を越えて逃げる中、唐仁祖だけは動じなかった。ついに僧格は失脚した。
  • 二十八年(1291年)翰林学士承旨中奉大夫、遼陽の飢饉に近侍蘇克・左丞実都と共に賑済に赴いた際、実都が戸籍の口数のまま大小に給しようとしたのに対し「昔の籍の小口も今は大人になっている、大口として給すべき」と主張、実都が「善名を得るために自分を悪者にするのか」と言うと「我ら二人の善悪は既に人々が知るところ、今更善名を要するのではない、民を恤むのみ」と笑って答え、大口の分を給した。まもなく通奉大夫将作院使に授かり、成宗即位後は太皇太后(大母の元妃)を尊ぶ冊文を書し、世祖御容の織絲像の工事も督して三年で完成させた。大德五年(1301年)再び翰林学士承旨資善大夫知制誥兼修国史を授かり、疾で卒去、享年五十三。榮禄大夫平章政事洹国公謚文貞を追贈。子の恕は奉訓大夫寿武庫提点、至大中に翰林待制、後に亜中大夫侍儀使に至った。