元史卷一百三十三 列傳第二十 伊克徳濟

出自と西南経略

  • 伊克徳濟は実喇婁人。祖の実達爾摩哩は烏蘇展国の哈喇婁軍三千を率いて太祖に帰順し、羊牛馬を万計で献じ、千戸として回回諸国征討・睿宗と徹伯爾の河西城平定に従い、後に臨洮攻めで戦死した。父の密喇卜和卓は太宗の伐金、憲宗の伐蜀に従い万戸府達嚕噶齊として軍中で没した。中統二年(1261年)伊克徳濟は千戸として五花石城・白馬等砦を破る戦功を重ね、至元七年(1270年)宋兵の成都侵攻を四百人で四日間拒み、眉州で追撃し大破、蒙古実喇婁河西漢軍万戸として眉州を戍った。
  • 嘉定包囲に従い懐遠砦を築いて要害を守り、宋兵の出撃をたびたび破った。十二年(1275年)入朝し対衣・玉束帯・白金百両を賜り昭勇大将軍上万戸に加えられ、兵一万を増員されて重慶包囲に加わり馬湖江両岸の水陸軍を督した。十四年(1277年)瀘州包囲で神臂門を先登して攻略、行枢密副使布哈の重慶攻めに従い仏図関に屯し、堡子頭に移屯すると宋守将趙安が開城降伏、重慶平定後は思州を略し降将百余人を得て昭毅大将軍に加えられた。西川新附の統治能力を評価され嘉定軍民西川諸蛮夷部宣撫司達嚕噶齊として戸を万余増やし、奉国上将軍四川宣慰使都元帥に進んだ。
  • 十七年(1280年)鄂端征討に従い、雲南行省参知政事を拝す。二十一年(1284年)右丞台布・諸王桑阿克達爾と分道して緬国を征し、阿昔・阿禾両江に舟を造り二百艘を得て江頭城を攻略、精鋭万人を得て都元帥袁世安に守らせ、地形を朝廷に報告した。緬の使降に応じなかった諸叛蛮が建都・大公城に拠って抵抗し僧の招諭も害されると、水陸並進で撃破し建都・金歯等十二城を降した。都元都哈達・万戸布都瑪勒らが兵五千で戍った。二十八年(1291年)四川行枢密副使に改まり卒去。子二人あり、和尼齊は徳済雲南都元帥、額埓蘇は蒙古軍万戸を襲封した。