元史卷一百三十一 列傳第十八 孟古岱

出自と襄陽・鄂州攻略

  • 孟古岱は蒙古塔塔爾氏。祖の塔斯和爾齊は太宗の中原平定に従い功を立て東平路達嚕噶齊となり地位は厳実の上にあった。孟古岱は世祖に事えて博州路鄂囉総管となり、至元七年(1270年)監戦万戸として金虎符を佩び、八年(1271年)鄧州新軍蒙古万戸に改まり万山南岸に水軍を設けた。九年(1272年)九月に樊城を攻めて古城を抜き、安陽灘で宋軍を破って転戦八十里、その将鄭高を捕らえた。十月の樊城総攻撃では五道の一翼を率いて南岸の舟を焼き、北岸に雲梯を立て櫃子城を攻略、西南角から入城して倉粟を確保、賞金百両を得た。襄陽降伏後は宋の安撫呂文煥の入朝に従い賞を受けた。
  • 十一年(1274年)丞相巴延・平章阿珠の南征に従い、万戸史格と鹽山嶺で宋兵を破り、郢州黄家原から沙洋堡を攻めて羊角埧を破り宋将四人を捕らえ、新城に迫り大勝。復州守将翟貴の降伏を受け、漢口から沙歩に至り宋兵三百余艘を撃退、武磯堡では宋将夏貴の堅守に対し丞相阿珠が万戸揚恰爾・史格・賈文備と孟古岱の四軍で青山磯に泝上、大戦の末に武磯堡を抜き守将王達を斬った。宋の制置使朱禩孫は江陵へ逃れた。
  • 巴延が鄂州に至り、孟古岱を遣わして守臣張晏然を諭させ降伏させ、程鵬飛・王儀・来興国も相次いで降った。鄂漢を鎮めた後、諸将と水陸並進し、十二年(1275年)正月には蘄・黄・安慶・池州諸郡を降し、丁家洲で賈似道・孫虎臣を撃退、范文虎の降伏を受けて和州・無為・巣を諭降させ、九月常州の木城を抜き、宋降将趙溍の溧陽での反乱を豊登荘で破って将三人を捕らえ湖州守将の降伏も得た。十二月、行両浙大都督府事を承制授与された。

江南経営と晩年

  • 十四年(1277年)閩広大都督行都元帥府事に改まり、逃亡する宋二王を追って漳州で守将何清を降した。十五年(1278年)福州に還り参知政事、索多らと行省を分掌して瀕海八郡を鎮撫。十月召還されて左丞に陞る。十六年(1279年)沙県で盗が起こると再び行省事を行いこれを平定。索多が福建で麾下の擾民により叛乱を招いた後、中書は孟古岱を再び派遣し招撫させ七十二寨を安集させた。
  • 十八年(1281年)右丞に転じ、宣慰使王剛中の擅権を移らせた。二十一年(1284年)江淮行省平章政事。宋降将五虎陳義は張弘範を助けて史天祥を捕え鄂勒哲圗の陳大挙討伐を助けるなど功があったが、福建省臣に反側の意ありと疑われ、孟古岱の調査の結果無事と判明、陳義に官爵を与えることを願い出て、同知広東宣慰使事となった。二十二年(1285年)帝は托果斯約蘇の伝えた中書省令に疑いを持ち「孟古岱ほど通暁の者こそ代われる」と述べた。二十三年(1286年)銀青栄禄大夫行省左丞相として江浙鎮守に戻り、浙西の大飢饉には河泊の禁を弛め府庫の官貨を安値で放出し、浙東の盗起には田租を蠲免した。
  • 私塩の海島民を日本征討の水工に募る建言、戦艦の海運への転用、行省治を杭州から揚州へ移すべしという建言、淮東での屯田設置の建言など、いずれも帝に採用された。二十五年(1288年)江淮の管内が孟古岱の節制下に置かれ、二十六年(1289年)中原民の江南転出を還すよう命じる議を止めた。閩越の盗起には博囉黙色哈雅らと討伐、御史大夫伊蘇特穆爾が将の選任を奏したが帝は「孟古岱がいれば心配ない」と答え、まもなく平定した。屡々病を理由に致仕を願い召還されたが、二十七年(1290年)江西平章鄂囉齊の不称職により丞相兼枢密院事として江西を鎮め、四十日で卒した。
  • 江浙にあっては専愎自用で戍兵の配置を勝手に変え、平章布琳濟達が巴延・阿珠の成法を変更したと非難、帝も度々戒めたが改まらなかった。死後、台臣は郎中張斯立の罪状に加え、孟古岱が劉宣を死に追いやり屯田を失敗させた件も帝に上奏された。子は特穆爾布哈・布哷齊(万戸を襲封)・伊拉齊(中書参知政事)の三人。