出自
- 諤勒哲は図卜布延氏。祖の図薩は太祖に従い諸部を平定し、太宗の伐金に際しては太弟睿宗が陝右から進軍して金の不備を衝いた戦に先鋒として従い、武休関を越え漢江を渡り方城を経て北上、陽翟で金兵を破った。金滅亡後は興元・閬州など諸州を攻め都元帥を拝し、宋の成都を取ってその将陳隆之を斬った功で食邑六百戸を賜った。父の錫津は宿衛禁中で御膳を掌り、中統初年に世祖に従い北征し、四年(原文のまま。年紀の齟齬あり)に中書丞相を拝し、諸儒臣と朝制を定めた。
東宮への出仕と右丞相就任
- 諤勒哲は大臣の子として裕宗王府の僚属に選ばれ、裕宗が皇太子となると詹事長に署し、参謀議・環衛を掌り、小心慎密であったため太子に重んじられた。ある日の宗室の宴で「親善を近づけ悪を遠ざけることは君の急務。諤勒哲のような者は群臣のうちで得難い」と称賛された。以後常に東宮の衛兵を典り、裕宗薨去後は成宗が皇孫として北方を撫軍する際にも両度従った。
- 至元二十八年(1291年)、僧格が伏誅すると世祖は廷臣に諮り、特に諤勒哲を中書右丞相に拝した。諤勒哲は僧格の弊政を革め、中統初年以来積年の逋負の銭粟を悉く免除し、民はその恵みを蒙った。
- 三十一年(1294年)、世祖崩御に際し遺詔を受け、宗戚大臣と合議して皇太后に啓し成宗即位を迎え、詔を発して征安南の師を止め、祖宗への尊謚・廟号の追加、皇太后への孝養を天下に示す礼制を建議した。元貞以来、朝廷は成憲を守って屢々詔を下し、財を散じ粟を発して民に賜うことを惜しまず、時に賢相と称された。
- 大德四年(1300年)、太傅を加え軍国重事を録す。地位が重くなっても功利に急がず安静に処したため、吏民は職を守り業を楽しみ、世に賢相と称された。
- 七年(1303年)薨去、享年五十八。興元王に追封され、諡は忠憲。