元史卷一百三十 列傳第十七 徹爾

出自と入仕

  • 徹爾は揚珠濟達氏。曽祖塔沁は馬歩軍都元帥として太祖に従い中原平定に功を立て、徐・邳二州に封じられ、一族は徐に居を定めた。徹爾は幼くして父を失い、母富察氏に読書を教えられた。至元十八年(1281年)、世祖に召見されて応対詳雅、これを悦ばせ、常に左右に侍った。

辺境の民への配慮と学田の保全

  • 東北辺の遠征に従った帰途、民が軍の通過で疲弊し寒餓に苦しむと世祖に訴え、穀帛牛馬を賜って救った。利用監に抜擢。
  • 二十三年(1286年)、江南に使いして風俗を視察した折、行省が財政窮乏から学田を売却しようとしたのを、祭祀・人材育成のためのものだとして中止させた。

僧格弾劾

  • 二十四年(1287年)、中書省が尚書省に改められ僧格(サンガ)が宰相となり、党与を用いて天下の銭糧を厳しく取り立てたため、旧債の徴収に迫られた民は自死や獄死する者が数百人に及んだが、廷臣は誰も口を開かなかった。
  • 徹爾は帝前で僧格の姦貪誤国の状を激しく訴えたところ、帝は怒って徹爾の頬を打たせたが、徹爾は怯まず弁じ続け、ついに帝を悟らせた。帝は羽林三百人を遣わして僧格の家を捜索させ、内蔵に匹敵する財宝を得た。僧格誅殺後、冤罪で捕らわれていた者たちは釈放された。
  • 江南に赴いて僧格の姻党を捜索し、江浙・湖広の省臣を処刑させた。天下がこれを快とした。徹爾は往来のたび故郷を素通りして立ち寄らなかった。
  • 御史中丞に進み、福建行省平章政事に陞る。汀漳の賊、歐狗を討ち、降人には酒食を与えて安堵させ、抗った首謀者だけを斬って従う者は一人も殺さなかった。

成宗擁立と晩年

  • 三十一年(1294年)、世祖不予(病篤し)の報に馳せ戻り医薬に侍った。帝崩御後、諸王大臣とともに成宗擁立の策を定めた。
  • 大德元年(1297年)、江南諸道行台御史大夫に拝され、御史の風紀を戒め、苛察に走らず、子に父を証させ弟に兄を証させるような風化を損なう行いを厳に慎ませた。
  • 江浙行省平章政事に改任。平江・嘉興・湖州三郡が水害に苦しんだ際、豪民の囲田によって水路が塞がれていたのを、卒数万を発して疏導させ、四か月かけて完工させた。
  • 九年(1305年)、中書平章政事に召し入れられたが、十月に病により薨去、享年四十七。家は貧しく遺産は二百緡に満たなかったといい、その廉潔が称えられた。推忠守正佐理功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国を追贈され、徐国公に封じ、諡は忠肅。至治二年(1322年)、宣忠同德弼亮功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を加贈され、武寧王に追封、諡は正憲。子の多爾濟は江浙行省左丞となった。