元史卷一百二十六 列傳第十三 廉希憲
字は善甫。博囉哈雅の子。若くして世祖に仕え「廉孟子」と称された名臣。京兆宣撫使・中書平章政事等を歴任して劉太平・和囉海の乱を平定し、北京・荆南でも善政を布いた。年五十で薨去、諡は文正。
年表(14件)
- 甲寅年世祖の京兆分地に伴い宣撫使に任じられる
- 己未年世祖の鄂州攻めに従い府庫を管理し俘虜の士人を購って還す
- 庚申年世祖の即位を進言し中統と建元する
- 中統元年1260年劉太平・和囉海を捕らえ誅殺し琿塔哈の乱を平定する
- 至元元年母の喪に服し血を吐くほど哀毀する
- 至元五年御史台設置を支持しアハマドの反対を退ける
- 至元七年鼐智密鼎釈放を巡り耶律鑄とともに罷免される
- 至元十一年北京行省平章政事として遼陽に出鎮する
- 至元十二年荆南行省として江陵に赴任する
- 至元十五年春病のため江陵から召還される
- 至元十六年春再び中書に入るが病篤し
- 至元十七年十一月十九日夜卒す、年五十
- 至元十二年春希賢、礼部尚書を授けられ宋への使者となる
- 至元十二年三月丙戌希賢、独松関で宋人に殺害される、年二十九
出自と若年
- 字は善甫。博囉哈雅の子である。幼くして魁偉で、挙止は凡児と異なっていた。九歳のとき、家奴四人が馬五頭を盗んで逃げ、捕らえられた際、法によれば死罪に当たるところを父が怒って有司に付そうとしたが、希憲が泣いて諫めて止めさせ、皆死を免れた。また母に侍って中山に居た頃、二人の奴が酔って悪口を言ったので、希憲は「これは私を幼いと侮っているのだ」と言い、府の獄に送って杖罪に処し、皆その見識に感じ入った。
- 世祖が皇弟であった頃、希憲は年十九で侍することとなり、その容儀・議論により恩寵は殊に絶えていた。希憲は篤く経史を好み手から書を離さなかった。ある日『孟子』を読んでいるところに召され、急いでこれを懐に入れて参上すると、世祖がその説を問い、性善・義利・仁暴の要旨をもって答えた。世祖はこれを嘉して「廉孟子」と名付け、これより名を知られた。
- かつて近臣と世祖の前で射を競った際、希憲は腰に矢三本を挿しており、これを取って射ようとする者があったので、希憲は「お前は私を射られないと思っているのか、ただ弓の力が少し弱いだけだ」と言い、左右が強い弓を与えると三発とも連続で命中し、衆は驚いて「まことに文武の材である」と感服した。
- 甲寅年、世祖は京兆を分地とし、希憲を宣撫使に任じた。京兆は隴・蜀を控制し、諸王・貴藩が左右に分布し、民は羌戎が混じって最も治めにくいとされていた。希憲は民の病を講じ求め、強を抑え弱を扶けた。暇な日には名儒の許衡・姚樞らに従って治道を諮訪し、まず衡を京兆学校の提挙に用いて人材の育成を根本の計とすることを願い出た。国制では士たる者は奴籍に隷させないとされていたが、京兆では豪強がこの令を廃して行わせていなかったので、希憲はこれをことごとく籍を著けて儒とさせた。
- ある民の妻が卜者と共謀して呪詛によって夫を殺した獄が成った際、僚佐は皆「今は大旱の時期であるから卜者は減死すべき」と言ったが、希憲は法に伏すべきだと議定した。まもなく大雨が降り、その判断が正しかったことが示された。
憲宗・世祖初期の内治
- 当初、世祖が命を受け憲宗が河南・関右を経理していたが、数年の間に讒言する者が「王府の人が多く専擅・不法である」と言い出したため、アルダル・劉太平を遣わして所部を検覈させ、酷吏を用いてこれを分担させ、大いに告訐の道を開いた。希憲は「宣撫司の事は己より出ている、罪があれば当然独り任じるべきで、僚属に何の関わりがあろうか」と言った。事が終わるまで結局罪を得る者はいなかった。
- 己未年、憲宗が合州に駐蹕し、世祖が江を渡り鄂州を取った際、希憲に府庫を籍させることを命じた。希憲は儒生百余人を引き連れて軍門に拝伏させ、「今、王師が江を渡り、軍中で俘獲された士人があれば官がこれを購って還らせ、異例の恩を広めるべきです」と言い、世祖はこれを嘉納し、帰った者は五百余人に及んだ。
- 憲宗が崩じたとの訃報が至ると、希憲は「殿下は太祖の嫡孫であり先皇の母弟であられます。以前雲南を征した際には期日通りに撫定され、今また南伐に率先して渡江されました、天道は明らかです。また殿下は才傑を召し集め、皆人望に従って黎庶を子として愛しんでこられました、率土の心はすでに帰しています。今、先皇が万国を捨てて崩じられ、神器に主がありません、願わくば速やかに京に還り大位を正して天下を安んじられますように」と啓上した。世祖はこれを然りとし、希憲に先に行き事変を審察させた。
- 希憲は「劉太平・和囉海は関右に、琿塔哈は六盤に、征南の諸軍は秦蜀に散在しています。太平は諸将と結び、その性は険詐で常に殿下の英武を恐れています。もし関中の形勝を頼みとして異謀を企てれば、次第に制しがたくなりましょう。趙良弼を遣わして人情を探らせるべきです」と対え、その事宜は聞き入れられた。額埓布格が北辺で乱を構え、托果斯を遣わして河朔に兵を発し大いに凶暴を働いた。真定の名士の李槃はかつて莊聖太后の命を奉じて額哷布格の講読に侍っていたが、托果斯は槃が自分に従わないことに怒りこれを械に繋いだ。希憲は獄に槃を訪ね、世祖に言上してこれを釈した。
- 世祖は希憲に宗王の塔齊爾に膳を賜わせた際、希憲は自分の考えを王に告げ、まず翊戴の謀を建てるべきだと言った。王はこれを然りとし、自らその事を任じることを許した。帰ってこの話を啓上すると、世祖は「これほどの重事を、卿はなぜそれほどまでに恐れずに済むのか」と言った。
- 庚申年、開平に至ると、宗室・諸王は即位を勧めたが謙譲してまだ允(ゆる)さなかった。希憲は再び天時人事をもって進言し、「額哷布格は殿下にとって母弟にあたり、朔方を居守して年来専制しています、あるいは神器を覬望する事態も測りがたく、早く大計を定めるべきです」と言った。世祖はこれを然りとし、翌日即位して中統と建元した。
- 希憲は「高麗王子の倎が久しく京師に留まっている、今その父が死んだと聞くので、王として立て国に還らせ恩によって結びつけるべきです」と上言し、また「鄂の兵がまだ戻っていない、使者を遣わして宋と講和し、諸軍を北に帰らせるべきです」と言い、帝はいずれも従った。趙良弼が関右から戻り劉太平・和囉海の反状を奏したが、皆希憲の言葉の通りであった。
劉太平・和囉海・琿塔哈の乱の平定
- 当初、漢地を十道に分けた際、京兆・四川を併せて一道とし希憲を宣撫使とした。太平・和囉海はこれを聞き駅を乗り継いで急ぎ京兆に入り、密かに変を謀ったが、三日後、希憲が至って詔旨を宣布し、使者を遣わして六盤を安諭した。まもなく断事官の庫庫楚が使者を遣わし、琿塔哈がすでに反し遣わした使者を殺したと告げてきた。多羅台はその党の密喇卜和卓を成都に、奇爾台布哈を青居に諭し、それぞれ兵をもって援けに来させ、また多く蒙古軍の鄂囉官・烏努呼らに金帛を与えて新軍を全て起こさせ、太平・和囉海に約して同日に事を起こそうとした。
- 希憲はこの報を得て僚属を召し「上は即位したばかりで、この責任は我らにある、まさに今日にある。早く計を為さなければおそらく間に合わない」と言い、万戸の劉哈瑪爾・京兆治中の高鵬霄・華州尹の史広を遣わして太平・和囉海とその党を掩捕させ、これを捕らえてその奸謀を得て獄に置いた。さらに劉哈瑪爾を遣わして密喇卜和卓を誅させ、総帥の汪惟正に奇塔特布哈を誅させ、駅によって朝廷に報じた。
- 当時関中に兵の備えがなかったため、汪惟良に秦・鞏の諸軍を将いて六盤に進ませることを命じたが、惟良は旨をまだ得ていないことを理由に辞したので、希憲は自分の帯びていた虎符・銀印を解いて授け、「これはすべて自分が密旨を承けたものだ、君はただ我が事を果たせばよい、制符はすでに飛奏させている」と言い、さらに銀一万五千両を付して功賞に充てさせ、庫の幣を出して軍衣を製させたところ、惟良は感激してついに出発した。また蜀の卒で更戍する者や在家の余丁を発し、諸軍の節制を推し、扎呼官の巴崇にこれを将いさせ、「君の将いる衆はまだ訓練を経ていない、六盤の兵は精強なので争って戦うな、ただ声勢を張って東進させなければ大事は成るだろう」と言った。
- ちょうど赦の詔が至ったが、希憲は太平らを獄で絞り、通衢に晒した上で赦の詔を迎えた。人心はこれで安んじたが、希憲は自ら赦を停め刑を行い、諸軍を徴調し擅に惟良を帥としたことについて自劾する使者を遣わした。帝はこれを深く善しとし、「経に言う『行権』とはまさにこのことだ」と言い、別に金虎符を賜って諸軍を節制させ、また「朕は卿に方面の権を委ねる、事は宜しきに従うべきであり常制に拘って事機を失ってはならない」と詔した。
- 西川の将の耨埓と鄂囉官の将が兵を挙げて琿塔哈に応じようとしたが、巴崇がこれを捕らえ、その党五十余人を乾州の獄に繋ぎ、二人を京兆に送って処刑を求めた。二人は死を免れないと自ら思っていたが、希憲は僚佐に「琿塔哈は東進の勢いに乗じられず、他に憂慮すべき点はない。今、衆の志はまだ一致しておらず、なお反側の心を懐いている。彼らの軍が将校が囚われるのを見れば、あるいは別の心を生じて害が小さくないかもしれない。今、彼らの死を恐れる心につけこんで寛く釈せば、恩に感じて力を効かせるようになるだろう。この軍の余丁を発してこれを巴崇に隷させるのが上策だ」と言った。
- 当初、巴崇が諸校を捕らえたとき、その軍は疑い駭いて四散し禁じることができなかったが、諸校が無事だったと知り、耨埓・鄂囉官が釈されたことを望外の喜びとし、その属を切に諭して兵を出して力を効かせるようにしたところ、人々は皆感悦し、巴崇もまた釈然として悟り、果たして精騎数千を得て共に西へ向かった。詔により希憲を中書右丞・行秦蜀省事とした。
- 琿塔哈は京兆に備えがあると聞き、西に河を渡って甘州に趨いた。アルダルもまた和琳から兵を提げて合流し、隴蜀の諸将と分かれて結び、さらに耨埓の兄の蘇克敦に書を送って耨埓を招かせた。そこで成都の帥の伯嘉努・興元の孟古岱・青居の汪惟正・奇徹らは皆使者を遣わして人心が危疑にあり事が測りがたいことを告げてきたが、希憲は使者を遣わして諭戒した。両川の諸将は元来希憲の威名を憚っていたので、按堵して命に従った。
- 琿塔哈・アルダルが軍を合わせて東進すると、諸将は敗れ河右は大いに震え、西土の親王の哲伯特穆爾は輜重をすべて失い秦・雍で食を求めた。朝議は両川を棄てて興元に退き守ろうとしたが、希憲は力をもってこれを不可とし、これにより止まった。親王のハタンおよび汪惟良・巴崇らが合兵して再戦し、西涼で大いにこれを破り、俘斬はほとんど尽き、二叛首を得て京兆の市に送り梟した。事が聞こえると帝は大いにこれを嘉し「希憲は真の男子である」と言い、平章政事に進拝し、邸宅一区を賜った。時に希憲は年三十であった。
- 希憲は四川の降民が皆山谷に散処しているので、軍吏に俘掠を禁止し、違反する者は千戸以下も犯人と同罪とすべきこと、また誰であれ生口の売買を禁じることを奏した。これにより四川はついに安んじ、降る者はますます増えた。また解塩戸から摘発された軍や京兆諸処の無籍戸で霊州の屯田に戍していた者を罷めて民力を寛くした。
- 奇徹が宋の臣の張炳・震王政の二人を捕らえたが、いずれも母の老いを理由に矜んで放免を願い出たので、希憲は皆これを帰した。宋の四川制置の余玠に書を送って天道人事を諭すと、玠は書を得て自ら恥じ感じ入り、自守して軽々しく動かなくなった。
- 鞏昌帥府が鎮戎州で叛謀があると告げ、連座した者四百余人に及んだが、希憲は詳しく推按し、首悪五人のみを誅した。宋の将の劉整が瀘州を挙げて降ると、以前に宋に帰していた数百人が繋がれて判決を待っていたが、希憲はこれを奏して釈させ、宰臣に書を送って整を恩をもって遇すべきだと力説した。整はのちに率先して襄陽攻略の策を建て、果たして勲効を立てた。宋の将の家属で北にいる者には希憲が毎年その糧を給し、宋に仕える者の子弟には境を越えてその親を省みることを許したので、人は皆これに感謝した。
李璮の乱と讒言への対処
- 李璮が山東で叛くと、事は王文統に連なった。平章の趙璧は元来希憲の勲名を忌んでおり、文統を張易・希憲が薦引して大用に至らせたと言い、また関中は形勝の地であり希憲が民心を得ている上に商挺・趙良弼がその輔となっている、これは聖慮に関わるべき事だと言った。帝は「希憲は幼い頃より朕に仕え、朕はその心を知っている、挺・良弼は皆正士である、何を憂うことがあろうか」と言った。
- 蜀の伶人の費正寅が私怨により希憲を讒し、李璮の叛乱に乗じて希憲が城を修め兵を治め密かに異志を蓄えていると言った。帝はこれに惑わされ、中書右丞の納罕に希憲に代わって行省させ、告げられた事を覆審させたが、結局実状は無かった。詔により希憲は京師に還され、陛見して「関陜の叛乱と川蜀の未定は事が急を要していたため、臣は状況に応じて行事しました、副官と謀りませんでした。もし寅の言うとおりであれば罪はただ臣にあります、臣が有司に逮繫されることを請います」と言った。帝は御牀を撫でて「その時の言葉は天が知り朕も知っている、卿に果たしてどんな罪があろうか」と慰諭し、中書平章政事に進拝した。
- ある夜半、帝は希憲を禁中に召して藩邸の頃のことを従容と語らい、趙璧の言のことに及んだ。希憲は「昔、鄂を攻めた時、賈似道は木柵を城の周りに築き一夕で成し遂げました。陛下は扈従の諸臣を顧みて『どうすれば似道のような者を得て用いることができようか』と言われました。劉秉忠・張易が進んで『山東の王文統は才智の士です』と申し上げましたので、今回李璮の幕僚となった彼について詔で臣に問われた際も、臣はその名を聞いたことがあるだけで実際に面識はなかったと答えました」と言うと、帝は「朕もこれを覚えている」と言った。
中書での治績と諫言
- 希憲は中書にあって綱維を振り挙げ、名実を綜覈し、冗濫を汰逐し、僥倖を裁抑した。興利除害の事はすべて便宜にかない、当時こぞって治世と称えられ、典章文物は粲然として考えるべきものとなった。また国家が開創以来、納土や始命の臣に世々その職を守らせてきたことについて、今や六十年近くにわたり、その子孫が部下を奴のように見なし都邑の長吏を皁隸・僮使のように扱っている、これは前古にないことだとし、改めて考課・黜陟の遷転法を行うことを建言した。
- 至元元年、母の喪に丁り古の喪礼に従い勺飲を三日間口にせず、慟哭のあまり血を吐いて起き上がれなくなり、草土廬に寝臥して墓の側らに廬した。宰執は喪の制がまだ定まっていないことから力を尽くして起こそうとし、廬を訪ねたが号泣する声を聞くと結局言い出すことができなかった。まもなく詔により奪情起復されたが、希憲は旨に敢えて背かないながらも、出れば素服で事に従い、入れば必ず縗絰を着け、父の喪に際しても同様にした。
- 奸臣のアハマドが左右部を領し財賦を専総していたところ、たまたまその党が相攻撃した際、帝が中書に推覆させたが誰も敢えて問おうとしなかった。希憲はその事を窮治し、実情を上聞してアハマドを杖罪に処し、領していた事務を有司に返させた。帝は希憲に「吏は法を廃して貪り、民は業を失って逃げ、工は用に給せず財は費用に足らない、これは先朝より久しく患っていたことだが、卿らが相となってから朕にはこの憂いがない」と諭した。希憲は「陛下の聖徳は堯舜に及びますが、臣らはいまだ皋陶・稷・契の道をもって治化を賛輔することができず、太平を招くには至っていません、恥じるところ多うございます、今日の小治程度では誇るに足りません」と対え、話が魏徴のことに及ぶと「忠臣・良臣はいずれの代にもいるものです、ただ人主が用いるか用いないかによります」と対えた。
- 内侍が旨を伝えて朝堂に入り「某事はこうすべきだ」と言ったことがあり、希憲は「これは宦官が政に関与する端緒であり、開いてはならない」と言い、入って奏しこれを杖罪に処した。
- ある者が丞相史天沢を訴え、その親党が中外に布列し威権日々盛んで漸く制しがたいと言った。詔により天沢の政事を罷め鞫問を待たせようとしたが、希憲は進んで「天沢が陛下に仕えて久しく、天沢を深く知る者は陛下に及ぶ者はありません。潜藩の始めより多く任使を経て、兵を将い民を牧するにいずれも治効がありました。陛下はその大事を任せられる人物と知り輔相として用いられました。小人がひとたび言を発したからといって、陛下はその心跡を熟察すべきです、果たして横肆・不臣の行いがあるでしょうか。今日、信頼される臣であっても、故臣(旧臣)ゆえにこの旨に預かるようであれば、他日臣を訴える者があれば臣もまた疑われることになります。臣らが政事に備員する以上、陛下の疑信がこのようであれば何を頼りに自らを保てましょうか。天沢がすでに罷められるなら、臣もまた罷められるべきです」と言った。帝はしばらくして「卿はしばらく退け、朕は考えよう」と言い、翌日召して「昨夜考えたが天沢に対する訴えには根拠がない」と諭し、この事は解決した。
- また四川の帥の奇徹を訴える者があり、帝は中書に急ぎ使者を遣わしてこれを誅すよう勅した。翌日希憲が覆奏を進めると、帝は怒って「まだ躊躇するのか」と言ったが、希憲は「奇徹は大帥であり、一小人の言によって誅殺されれば民心は必ず驚くでしょう。ここまで捕らえた以上、訴えた者と廷対させてその罪を天下に明らかにするべきです」と答え、詔により使者を遣わして按問させたところ、後に事は結局実状がなく、奇徹は罪を免れた。
- 希憲は帝前で奏議するたびに事を論じることが激切で少しも回避しなかった。帝が「卿は昔、朕の王府に仕えていた頃は多くを容れ受けていたが、今は天子に仕える身なのにこれほど木のように強情なのか」と言うと、希憲は「王府の事は軽く天下の事は重いのです。ひとたび面従すれば天下がその害を受けます、臣は自愛しないわけではないのです」と対えた。
- 方士が大丹を煉ることを請い、中書にその要する物を給するよう勅が下ったが、希憲は秦漢の故事をすべて挙げて奏し、「堯舜が長寿を得たのは大丹のためではありません」と言った。帝は「そうだ」と言いこれを却けた。
- 当時、国師を尊礼しており、帝は希憲に戒を受けるよう命じたが、「臣はすでに孔子の戒を受けております」と答えた。帝が「孔子にも戒があるのか」と問うと、「臣たる者は忠を、子たる者は孝を為すべし、孔子の戒とはこれだけです」と答えた。
- 五年、初めて御史台が建てられ、続いて各道に提刑按察司が設けられた。当時、アハマドが財利を専総しており、「庶務は諸路に責め成し、銭穀は転運に付している、今このように縄治すればどうして事が果たせようか」と言ったが、希憲は「台察を立てるのは古制である。内には奸邪を弾劾し、外には非常を察視し、民の疾苦を訪求する、国政に益するものはこれより大きなものはない。もしこれを去れば上下は暴恣となり、事がどうして成就しようか」と言い、アハマドは対応できなかった。
- 七年、詔により京師の繋囚を釈すことになった。西域人の鼐智密鼎は先朝で事を執り累貲は巨万に及んでいたが、怨む家に告げられ大都の獄に繋がれていたところ、すでに釈されていた。この時希憲は休暇中で実際にその事に関与していなかった。この秋、車駕が上都から戻ると、鼐智密鼎を怨む家が帝に訴え、希憲は堂判に補署して「天威は測りがたい、自分だけ署さずに幸いにも免れようとするわけにはいかない」と言った。希憲が入見して詔書のことを言うと、帝は「詔で釈したのは囚人一般のことだ、鼐智密鼎を釈すという詔があったか」と言った。希憲は「鼐智密鼎を釈さないという詔もまた聞いておりません」と答えると、帝は怒って「汝らは読書の徒と号しながら事に臨んでこの体たらくとは、何の罪を受けるべきか」と言った。希憲は「臣らは忝くも宰相ですので、罪あれば罷退すべきです」と答えると、帝は「では卿の言うとおりにせよ」と言い、左丞相の耶律鑄とともに罷された。
- ある日、帝が侍臣に希憲は家で何をしているかと問うと、侍臣は読書をしていると答えた。帝は「読書はもとより朕が教えたことだが、読んでこれを用いようとしないなら多く読んで何になろうか」と言い、政事を罷められても再び進む道を求めないことを責めた。アハマドはこれに乗じて讒言し「希憲は日々妻子と宴楽しております」と言った。帝は色を変えて「希憲は清貧である、どうして宴設できようか」と言った。
- 希憲がかつて病んだ折、帝は医者を遣わして診させ、医者は砂糖を用いて飲み物を作るべきだと言ったが、当時これは最も得難いものであった。家人がこれを外に求めると、アハマドはこれを二斤与え、密かな思いも添えたが、希憲はこれを却けて「もしこの物が実際に人を活かすことができるとしても、私は奸人が与えたもので生を求めるつもりはない」と言った。帝はこれを聞いて別にこれを賜った。
北京・荊南への出鎮
- 嗣国王の特訥克が行省として遼陽を鎮していたところ、民を騒がせているとの訴えがあった。十一年、詔により希憲を起用して北京行省平章政事とすることになった。まさに出発しようとした際、肩輿で入って辞去の挨拶をすると、帝は坐を賜い「昔、先朝にあって卿は深く事機を識り、常に帝道をもって朕を啓発してくれた。鄂の役の班師の際にもしばしば天命を陳べてくれたことを朕は忘れていない。丞相の位にこそ卿はふさわしいのに、退いてかこつけているだけだ。遼霅の戸は数万を下らず、諸王・国壻の分地がそこにある。彼らは皆元来卿の能を知っているから、卿を遣わして鎮させることとする、朕のこの意をよく体せよ」と言った。遼東には親王が多く、使者が令旨を伝えると官吏が立って聴くのが常であったが、希憲が至ると初めてこれを改めさせた。
- ある西域人が自ら駙馬と称し城外に営を構え、富民を繋いでその祖父がかつて息のつく銭を貸したと誣告し、急いで償いを索めていた。民がこれを行省に訴えたので、希憲はこれを収捕させた。その人は怒って馬に乗って省堂に入り榻の上に座ったので、希憲はこれを引きずり下ろし跪かせて問い、「法には私獄がない、汝は何者だ、擅に民を繋ぐとは」と言い、これを械に繋がせた。その人は恐れて哀を求め国王もまたこれを取りなしたので、いくらか寛くして対決を待たせたが、彼はその営を挙げて夜に逃げた。まもなく詔により国王が帰国し、希憲一人が行省の事を担った。
- 朝廷が鈔を降して馬六千五百頭を買わせたので、希憲は東州で買わせたところ余分の馬千三百頭を得た。希憲は「これを上に納めれば自分の手柄を誇るようなものだ」と言い、他郡で足りない分にこれを充て、その代金を官に返した。
- 長公主および国壻が入朝した折、郊原で狩猟をほしいままにし民を騒がすことが甚だしかったので、希憲は国壻に面と向かって諭し、これを奏上しようとした。国壻は驚いて公主に告げ、公主は自ら出て希憲に酒を勧め「従者が民を騒がせたことは私は知らなかった、鈔一万五千貫を出して民から取った物の代金を返す、どうか使者を遣わさないでほしい」と言った。これより貴人が通過する際、誰も勝手な行いをしなくなった。
- 十二年、右丞のアルハヤが江陵を下しその地形を図にして朝廷に上げ、重臣を遣わして大府を開いて鎮めることを請うた。帝は急ぎ希憲を召し還し、荆南に行省させることとし、坐を賜って「荆南が我が版籍に入った以上、新附の者に恩に感じさせ、まだ来ていない者に化に向かわせたい。宋も我が朝にこのような臣がいることを知れば、その心を降すことができよう。南土は卑湿で卿には向いていないが、今この大事を託す、卿は辞さないと思う」と諭し、田を賜って居る者を養わせ、馬五十頭を従者に給した。希憲は「臣は常に才識が浅く重任に勝えないことを恐れております、どうして病を理由に辞退できましょうか」と言ったが、あえて新しい賜物は辞退した。さらに詔により希憲に承制して三品以下の官を授けることが許された。希憲は暑を冒し病を押して馬を駆り進み、鎮に至るとアルハヤはその属を率いて郊外に迎え塵の中で望拝し、荆の人は大いに驚いた。
- 即日、剽奪を禁じ通商を興し利を興し害を除いたので、兵民は按堵した。まず宋の旧宣撫・制置二司の幕僚で事を任せられる者を録し採訪に備え、なお二十余人を選んで才に随って職を授けた。左右がこれを難ずると、希憲は「今はみな国家の臣子である、何を疑うことがあろうか」と言った。当時、宋の旧官が大府に礼謁する際は必ず広く珍玩を送り届けていたが、希憲はこれを拒み、「汝らは依然として旧官のままか、あるいは異例の昇進を得たかもしれないが、聖恩を思い力を尽くして報効すべきである。今贈られる物がすべて自分の物であれば我がこれを取るのは義に非ず、少しでも官事に係るものならば盗窃と同じであり、もし民から取り立てたものならば無罪とは言えない、慎むべきである」と語り、皆感激して謝して去った。
- 俘獲された人を敢えて殺す者は故殺平民の罪をもって論じ、軍士に虜われた病人を棄てた者があれば人に収養させ、病が癒えれば元の主人は再び権利を主張できないとし、契劵を立てて妻子を質売する者があれば重罪とし没入した代価を官に収めさせた。以前、江陵城外には水を蓄えて防禦としていたが、希憲はこれを決壊させ良田数万畝を得て貧民の業とした。沙市の倉粟で官籍に入っていなかった二十万斛を発して公安の飢えを賑わせた。大綱がすでに挙がると「教育も緩めてはならない」と言い、大いに学を興して教官を選び経籍を置き、日ごと自ら講舎に赴いて諸生を励ました。
- 西南の渓洞および思・播の田・楊二氏、重慶制置の趙定応が皆境を越えて降を請うたことが聞こえると、帝は「先朝は兵を用いなければ地を得られなかったが、今希憲は数千百里外の者に境を越えて土地を献じさせることができる、その治化が知れよう」と言った。
- 関吏が江陵の人の私書を得て発することができず、これを枢密の臣に届けて帝前で発いたところ、その中に「帰附の初め、人は生きる術がなかったが、皇帝が廉相を遣わして荆南に出鎮させたことにより、人だけでなく昆虫・草木までもがその徳に潤った」との文があった。帝は「希憲は殺人を好まないゆえにこれができるのだ」と言った。
- 希憲の病は久しく癒えず、十五年春、近臣の董文忠が「江陵は湿熱の地で希憲の病にどうであろうか」と言うと、直ちに希憲を召し戻した。江陵の民は号泣して道を遮り引き留めようとしたが叶わず、共に画像を描いて祠を建てた。希憲は戻ると囊槖は蕭然として琴書のみを自ら携えていた。帝はその貧しさを知り、特に白金五千両・鈔一万貫を賜った。
晩年と死
- 五月、上都に至り、太常卿の田忠良が病を問いに来ると、希憲は「上都は聖上龍飛の地であり、天下は根本の地と見なしている。近ごろ龍岡で失火があり民居に延焼したと聞くが、これはよくあることに過ぎない、慎んで地理を妄りに談じて上意を惑わせないようにしてほしい」と言った。まもなく果たして都邑を移すべきだと奏する者が数人あり、枢密副使の張易・中書左丞の張文謙が廷で反論しこれに強く不可を唱えたが、帝は不快であった。翌日忠良を召してその事を質すと、忠良は希憲の言葉をもって答え、帝は「希憲は病が重い中でもこのことに思いを及ぼすのか」と言い、その議はついに止んだ。
- 詔により揚州の名医の王仲明を召して希憲の病を診させた。至ると希憲はその薬を服してよく杖をついて起き上がれるようになった。帝は喜んで「卿は良医を得て病が快方に向かったようだ」と言うと、希憲は「医が善い薬を持って臣の病を療しても、もし戒慎できなければ、確かに聖諭の通りですが、仮に怠惰放縦であれば良医とて何の益がありましょうか」と答え、これは医のことにかこつけて諷諫したものであった。
- 門下省を立てる議があった際、帝は「侍中は希憲でなければならない」と言い、中使を遣わして「鞍馬の任は卿を煩わせない、坐して道を論じてほしい、時に省中に至って必ず執奏すべき事があれば肩輿で入ってよい」と旨を諭させた。希憲は「臣の病は惜しむに足りません、忠を輸し力を効すことは生涯の願いです」と付奏した。皇太子もまた人を遣わして「上は卿に門下省を領するよう命じられた、群小を憚る必要はない、私が卿のためにこれを除こう」と諭したが、結局アハマドに阻まれた。
- 十六年春、鈔一万貫を賜い、詔により再び中書に入ることとなった。希憲は病篤しと称し、皇太子は侍臣を遣わして病を問わせ治道を問うた。希憲は「天下を治める要は人を用いることにある。君子を用いれば治まり、小人を用いれば乱れる。臣の病は劇しいとはいえ天に委ねればよいが、最も憂うるのは大奸が政を専らにし群小が阿附して国を誤り民を害することである、これが病の大きなものである。殿下はよろしく聖意を開いて急いでこれを屏除すべきである、そうでなければ日々沈痾が進み薬すら効かなくなろう」と言った。子を戒めて「丈夫は義を見て勇んで行うべきだ、禍福は自分に関わりがない。臯・夔・稷・契や伊尹・傅説・周公・召公を及ばないと言うのは、自らを見限ることに過ぎない。天下の事にもし牽制がなければ三代の世を再び実現できよう」と言い、また「汝は狄梁公(狄仁傑)の伝を読んだか、梁公には大節があったが不肖な子によって失われた、汝らはこれを慎むべきだ」と言った。
- 十七年十一月十九日夜、正寝の傍らに大星が隕ち、流れる光が地を照らし久しくして消えた。その夜、希憲は卒した。年五十。大徳八年、忠清粹徳功臣・太傅・開府儀同三司を贈られ魏国公に追封、諡は文正。さらに推忠佐理翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱國・恒陽王を加贈され、諡はそのまま。子六人、孚(僉遼陽等處行中書事)・恪(台州路總管)・恂(中書平章政事)・忱(邵武路總管)・恒(御史中丞)・惇(江西等處行中書省參知政事)。
希賢(廉希憲の従弟)
- 字は達夫、一名珠徳哈雅。伯父の博囉哈雅はかつて「この子は剛果である、我が家を担うべきだ」と言った。年二十余りで従兄の希憲とともに世祖に侍り、禁中に出入りして小心慎密であった。至元の初め、北部王が使者を拘え殺した際、世祖は使者を選んで諭させようとし、廷臣が希賢を推した。至って上意を布くと辞旨は条暢で、王は悔い謝して宴を設け、貂裘一襲・白金一笏を贈った。戻って奏上すると帝は喜んで御膳を賜い、まもなく中議大夫・兵部尚書に進んだ。
- 左丞相の巴延が宋を伐ち江を渡ると、至元十二年春、希賢に礼部尚書を授け金虎符を帯びさせ、工部侍郎の嚴忠範・秘書丞の柴紫芝とともに国書を持たせて宋に使いさせた。三月丙戌、広徳軍の独松関に至った際、関を守る者が使者であることを知らず、これを襲って殺した。張濡はこれを己の功として賞を受け、広徳軍を知った。翌年、宋が亡び張濡を捕らえて誅殺した。詔により使者を遣わして希賢の喪を護送させ帰らせ、のち濡の家貲を籍してその家に付した。希賢が死んだ時は年二十九であった。