元史卷一百二十四 列傳第十一 哈勒噶齊必嚕

哈勒噶齊必嚕

  • 輝和爾(ウイグル)の人。性は聡敏で事に習熟していた。国王の約蘇特穆爾伊都呼はその名を聞き、錫哩瑪勒国から召し出して断事官とした。約蘇特穆爾が没すると、その子の巴哩珠阿勒坦徳濟伊都呼はまだ幼く、西遼主の珠爾汗が使者を遣わしてその国を取り、また哈勒噶齊必嚕を召して諸子の師とした。
  • 巴哩珠阿勒坦徳濟は太祖の明聖なることを聞き、西遼の使者を殺して改めて額琳特穆爾都督ら四人を西遼に遣わした。額琳特穆爾都督は哈勒噶齊必嚕の婿であり、事情をつぶさに語った。そこでその子の伊徳實伊納克とともに太祖に帰順し、太祖は一見して大いに喜び、諸皇子に学ばせた。さらに伊徳實伊納克を人質として宿衛に入れ、帝の西征に従わせた。
  • 巴實伯里の東独山に至ったとき、城が空で人がいないのを見て、帝がこの城について問うと、「独山城はかつて大飢饉の年に民が皆他所へ移った。しかしこの地は北からの要衝に当たるので、耕作させて備えとするのがよい。私はかつて錫哩瑪勒国にいたとき、六十戸を移住させたいと願う者があった」と答えた。帝は「よろしい」と言い、伊徳實伊納克に金符を持たせて彼らを連れて行かせ、父子ともこの地に留まった。六年後、太祖が西征から戻り、田野が墾かれ民物が繁栄しているのを見て大いに喜んだが、哈勒噶齊必嚕はすでに没していた。そこで伊徳實伊納克に都督印を賜い、独山城の逹嚕噶齊を兼ねさせた。
  • 伊徳實伊克納(伊徳實伊納克)が没し、子の竒徹森和拉が太宗の時に爵を襲い、達罕の号を賜った。その子は四人、塔塔爾・賀軫・和爾斯滿・裕勒斯滿という。
  • 世祖は和爾斯滿に舒蘇徳濟に従って雲南を鎮めさせた。裕勒斯滿は憲宗に仕え、父の爵位を襲い僧人をも領した。のち軍帥の濟古爾台が巴實伯里に拠ったため、一族を挙げて平凉に移り住み、その子の諳逹黙色特爾穆と共に世祖に謁見し、詔により宿衛に入って必且齊となった。安西王莽噶拉木に従って六盤を鎮め、安西王が薨じるとその子の阿南逹が嗣いだ。
  • 成宗が即位すると、使者を遣わして入朝させ、諳達黙色特穆爾父子はもとは先帝の旧臣で先王に仕え二十余年もの間勤めてきたので、王府で老いさせるのは才を尽くさせる所以ではなく、陛下に帰し用いていただきたいと奏した。成宗はこれを許し、諳達黙色特穆爾に汝州逹嚕噶齊を授け、官は秘書太監に至って没した。子は額琳特穆爾。

額琳特穆爾(諳達黙色特穆爾の子)

  • 国書に長じ博聞で、歴代の朝廷に仕え、翰林待制から累進して榮禄大夫・翰林學士承㫖となった。英宗の時、旧学を以て日々左右に侍り、祖宗以来および古の聖哲王の嘉言善行を説き、諸経を翻訳して事跡を記録し、諸王・駙馬・畨国の朝会の事を総べ治めた。
  • 天暦の初め、北へ迎えに行き明宗を迎立し大統に入らせると、明宗は一見して大いに喜び、左右を顧みて「これは朕の師である」と言った。天暦三年、光禄大夫・知經筵事に進んだ。子は實喇卜・圖古勒・陸實・薩納の四人。實喇卜は累進して中書平章政事・大司徒・宣政院使を拝した。