元史卷一百二十三 列傳第十 徹辰巴圖爾

欽察出身の歴戦

  • 徹辰巴圖爾は欽察人、初め太宗に仕え牧馬を掌り、鳳翔攻め・潼闗の戦いに功があった。大将蘇布特の汴京攻めで金人が河南に木柵を布くと死士を率いて拔き良馬十匹を賜った。師還の途上、金の髙都尉に邀撃されたが迎え撃って首を斬り白金五十兩・幣四匹を賜った。蔡州攻めでは金将に鬚を捽まれた前鋒塔塔爾を救い、蔡州陥落時には虎符を佩び城上に立つ金の守将を鉄椎で撃殺し虎符を献じた。皇子の棗陽攻め、宗王昆布哈の光州攻め(一日五戦で陥落)に従い黄金五十兩・白金酒器・馬三十匹を賜った。百戸阿巴齊が臨陣不勇を理由に自ら降格を願い出た後を継いで百戸に陞り、滁州攻めでは宋兵を西山まで追殺した。
  • 己未歳、世祖の伐宋で先に渡江する者を募ると首に応じ南岸に迫り、托歓とともに百人を率いて宋使に鄂州降伏を促したが、鄂州守将は使者を殺して来襲、徹辰巴圖爾はこれを大破し黄金五十兩を重ねて賜った。中統三年(1262年)蔡州蒙古漢軍萬戸を授けられ、冬に西平を犯した宋人を淮を越えて追い多くの生口を得た。至元二年(1265年)安慶から廬州に入り宋兵を竹林で伏撃、四年(1267年)秋九月、元帥阿珠の襄陽安陽灘軍で宋兵の渡口拠守を撃破、五年(1268年)阿珠の襄陽包囲で宋将夏貴の米舟を奪い、阿珠が漢江に入る際は扎拉とともに南方を略し俘八十人を得た。十年(1273年)八月淮東を略し、十一年(1274年)鄂州招諭、十二年(1275年)滁州招諭で王安撫を誅し武略将軍管軍千戸に改まり、五月大江北岸で宋軍を伏撃して敗走させた。十三年(1276年)再び淮東を略し総管二人を獲て献じ、滁州総管府達嚕噶齊に遷った。宋の都統姜才が髙郵で糧を奪おうとした際、史萬戸に従いその馬と糧槖二万を奪い淮東は平定、入朝した。十四年(1277年)叛人珠爾噶岱を和囉海圖で討ち、宣武将軍滁州路総管府達嚕噶齊に改まった。十七年(1280年)子の托歓・孫の茂と入見し「臣は老いた、幸い主上に憐れんでいただきたい」と願うと、帝は托歓を宣武将軍管軍総管・金符に、茂を滁州路総管府達嚕噶齊に任じた。後に托歓は日本征討の功で明威将軍滁州萬戸府達嚕噶齊、昭勇大将軍征行軍萬戸府達嚕噶齊・三珠虎符、爪哇征討の功で昭毅大将軍鎮守無為滁州萬户府達嚕噶齊に進み、次子の索珠がその職を襲った。