元史卷一百十九 列傳第六 穆呼哩

扎拉爾氏。父の崆根果斡は太祖の麾下で戦死した功臣。穆呼哩自身は太祖の腹心武将で、博爾濟・博囉罕・齊拉衮とともに「四傑」と号された。太師國王に封じられ華北平定の全権を委ねられ、金討伐・遼西平定・西夏方面攻略で数々の功を立てた。年五十四で薨去。

年表(13件)

出自と生い立ち

  • 穆呼哩(ムカリ)は扎拉爾氏、代々鄂諾水の東に居住した。父の崆根果斡は太祖の麾下にあって黙爾竒斯征討や奈曼との戦いに従い、後に奈曼が再叛したとき太祖を六騎で守って戦死し、太祖を自分の馬に乗せて逃がした。穆呼哩はその第五子中の第三子で、生時に白気が帳中に立った瑞兆があり、神巫に非凡の子とされた。成長すると沈毅多智・善射で、弓二石を引く力があった。博爾濟・博囉罕・齊拉衮とともに太祖に仕え、忠勇の誉れから「都爾本庫魯克」(華言で四傑)と号された。
  • 太祖の軍が大雪で野営した際、穆呼哩は博爾濟とともに裘氈を張って夜通し太祖を風雪から守った。ある日、太祖が三十余騎で谷間を進んだとき賊の伏兵に遭ったが、穆呼哩は自ら盾となることを申し出て突出し、矢を三発放って三人を射殺した。
  • 克哷王汗(ケレイト部)と奈曼部の抗争に太祖が援軍を送ると、穆呼哩らは奈曼の衆をことごとく討ち、甲仗・馬牛を得て帰還した。のち王汗が太祖を襲おうとした密謀が発覚すると、太祖は穆呼哩に精鋭を選ばせ夜襲を行わせ、王汗は敗走して死んだ。

太祖の即位と左右萬戸拝命

  • 丙寅歳(1206年)太祖が皇帝位に即くと、穆呼哩・博爾濟をまず左右萬戸に任じ、「国内の平定はお前たちの力が大きい。私とお前たちは車の轅、身の臂のようなものだ」と諭した。

金討伐の緒戦(辛未~乙亥)

  • 辛未(1211年)金討伐に従い宣徳を攻め徳興を奪い、壬申(1212年)雲中・九原諸郡を落とし、撫州を包囲した。金兵四十万が野狐嶺北に陣したとき、穆呼哩は「彼は衆、我は寡。力戦せねば破れぬ」と敢死の士を率いて陥陣し、太祖の諸軍が続いて金兵を大破、澮河まで追撃して死屍が百里に及んだ。
  • 癸酉(1213年)居庸関攻撃は失敗したが、哲伯に紫荊口を迂回させて金の左監軍髙琪を敗走させ、涿州を落とした。分兵で益都・濵棣諸城を下し覇州に至ると、史天倪・蕭伯特が来降して萬戸に任じられた。
  • 甲戌(1214年)燕を包囲した後、金主の和議を受けて北還、遼東征討に転じ、髙州の盧琮が降った。乙亥(1215年)東京を平定、北京では金の守将伊木沁の二十万を花道で大破して八万余級を斬り、城中の食が尽きて契丹軍が斬関して降ると、伊木沁を殺した音達琿が城を挙げて降った。

北京平定後の統治と諸将の去就

  • 穆呼哩は降兵の緩慢な帰順に怒って坑にしようとしたが、蕭額森の諫言(北京は遼西の重鎮、坑にすれば以後の降者がなくなる)を容れて思いとどまった。音達琿を北京留守に、烏頁爾を権兵馬都元帥に任じ、興中府では吏民が知同烏里布を殺し石天応を推して降った。錦州の張鯨(自称臨海郡王、衆十余万)が来降し北京十提控兵を統べさせたが、反側の疑いがあり監軍蕭額森を送って誅殺させた。
  • 張鯨の弟張致が兄の誅殺を憤って錦州で叛し平・灤・瑞・利・義・懿・廣寧等州を掠めたが、穆呼哩は蒙古布哈らの軍数万で討ち、州郡は多く長吏を殺して降った。紅羅山では主将杜秀が降り錦州節度使とされた。丙子(1216年)張致が興中府を陥れると、穆呼哩は敵の退路を断つ策で神水県東に夜襲をかけ、東平(張致の子)以下一万二千八百余級を斬り、さらに錦州を包囲して三千余級を斬り溺死者は数えきれなかった。囲守一月余で内訌が起き、髙益が張致を縛って降伏、伏誅した。廣寧の劉琰・懿州の田和尚も降り、穆呼哩は「叛冦を存せば後を懲らしめられぬ」として工匠・優伶を除き悉く屠った。蘇・復・海三州を落とし、完顔仲嘉努ら十余万は海島へ逃れた。

太師國王への封拝と華北平定

  • 丁丑(1217年)八月、太師國王に封じられ都行省承制行事の権を賜り、誓券・黄金印には「子孫伝国世々不絶」と刻まれた。鴻吉哩・伊竒喇斯・烏嚕古莽果等十軍と烏頁爾・契丹・畨漢等軍を麾下に属し、太行以南の経略を委ねられ、大駕の九斿大旗を賜って燕雲に行省を建てた。
  • 遂城・蠡州諸城を落とし大名府を陥れ、益都・淄・登・萊・濰・密等州を平定。戊寅(1218年)西京から大和嶺を経て河東に入り太原・忻・代・澤・潞・汾・霍等州を降し、平陽も従わせた。己夘(1219年)岢嵐・火山軍を降し、吉隰州を攻略、綘州を落とした。庚辰(1220年)燕から趙に至り真定の武仙が来降、史天倪の進言(略奪禁止)を容れて軍紀を粛正させた。
  • 邢州節度使武貴が滏陽で迎降、天平寨を破る。蒙古布哈が河北・衛・懐・孟州を平定、嚴實が相・魏・磁・洺・恩・博・滑・濬等州の民三十万戸を率いて軍門に降った。黄陵岡で金兵二十万の一部を輕兵五百で撃走し、大軍が黄陵岡で金兵を短兵戦で大破。楚丘・單州を落とし、東平を包囲する一方、嚴實に山東西路行省を委ねて城の民を安撫させた。辛巳(1221年)四月、東平の兵糧が尽きて金行省孟古が逃げ、蘇嚕克圖が七千余級を斬った。宋の忠義統轄石珪が来降し、京東安撫使張琳・鄭遵も来降した。

西夏・陝西方面の作戦(辛巳~壬午)

  • 秋八月、青冢に駐屯し監国公主の使者を饗応、東勝から渡河、夏国李王が兵五万を属させた。冬十月、雲中から太和寨を経て葭州に入り、石天応を権行臺兵馬都元帥として綏徳を進取、馬蹄寨を破った。延安近くで金の完顔哈達の三万を蒙古布哈の伏兵策で大破(七千級斬首、馬八百獲得)、延安を包囲するも下せず洛川・鄜州を攻略した。金の驍将張鐵槍が捕らえられると降伏を拒み、義とされつつも諸将に処刑された。坊州を降し、隰州を奪還した金に対し丹州から渡河して再び攻略した。
  • 壬午(1222年)秋、蒙古布哈を秦隴に出して声勢を張り、大軍は雲中から孟州・四蹄寨を攻め、晉陽・義和寨・三清巖・霍邑山堡を落とした。青龍堡では金の平陽公胡天祚が降り、平陽に遷された。

星変と最後の遠征(壬午~癸未)

  • 八月、星変を理由に隠士喬静真が進軍中止を進言したが、穆呼哩は「主上の命は中原平定にあり、河南秦鞏が未平定のまま天象で進まねば天下はいつ定まるのか」と拒み進軍を続けた。絳・榮州・胡瓶堡を攻略、久しく金に属していた河中も帰順した。石天応を河東南北路・陝右関西の要害守備に任じ、浮梁を築かせて渡河、同州・蒲城を下し長安に迫った。金の完顔哈達が二十万で固守する京兆を包囲するも鳳翔攻撃は月余下せず、「遼西・遼東・山東・河北を刀を労せず取ったのに、天平・延安・鳳翔だけ下せぬのは天命が尽きたのか」と自嘲した。渭水南に駐屯し、蒙古布哈を南の牛嶺関経由で宋の鳳州へ遣った。
  • 中条山の賊侯七らが河中襲撃を図ったが、石天応の伏兵策は吳権府の失期で失敗し、天応は戦死、城は陥ちた。安扎爾が中条で侯七を追撃し数万級を斬った。癸未(1223年)春、浮梁未完成のまま河西堡寨十余を攻略し三月に渡河した。

薨去

  • 聞喜県で重病になり、弟岱遜を呼んで「私は国家のために四十年近く甲を着け鋭を執り東征西討したが、汴京がまだ下っていないのが心残りだ」と遺言し、年五十四で薨去した。後年、太祖が自ら鳳翔を攻めたとき「穆呼哩がいれば私が自ら来る必要はなかった」と述懐した。
  • 至治元年(1321年)、父の崆根果斡には太師開府儀同三司上柱國魯國王・諡宣忠が、穆呼哩自身には体仁開國輔世佐命功臣・太師開府儀同三司上柱國魯國王・諡忠武が追封された。子の博囉が爵を嗣いだ。

博囉――西夏討伐と嗣立

  • 博囉は沈毅魁傑・寛厚愛人で諸国語に通じ騎射を善くし、二十七歳で行在所に入朝した。太祖が西域にあったとき、夏国主李王が外援と結んで異図を蓄えているとの密詔を受け、甲申(1224年)秋九月銀州を攻略して数万級を斬り、生口・馬駞牛羊数十万を獲て監府塔爾海を捕らえた。都元帥蒙古布哈に要害守備を命じて帰還した。

博囉――金討伐と益都平定

  • 乙酉(1225年)春、朝見のため戻る途中、同知真定府事の武仙が叛いて都元帥史天倪を殺し民を脅して雙門寨に逃げた。武仙の弟は軍中の人質だったが逃亡し、賽罕が紫金闗で追斬した。天倪の弟天澤が帥府事を代領した。丙戌(1226年)功臣に户口の食邑を封じる詔があり、博囉は十投下の首位となった。宋将李全が益都を陥れ元帥張琳を楚州へ送ると、秋七月郡王岱遜が益都で李全を包囲した。
  • 冬十二月、博囉が斉に進軍し、まず李喜孫を遣って李全を招諭したが、李全は降ろうとしたものの部将の田世榮らが従わず李喜孫を殺した。丁亥(1227年)春三月、李全が突囲を図って敗れ七千余級を斬られ、自相蹂躙・溺死は数えきれなかった。夏四月、城中の食が尽きて李全は降伏した。諸将は「李全は勢窮まって降っただけで心服していない、殺さねば後患になる」としたが、博囉は「山東の未降者はなお多い、人心を得た者を殺せば威を失うだけ」として殺さず、山東淮南楚州行省として鄭衍徳・田世榮を副に任じ、山東は悉く平定した。

博囉――滕州攻略と晩年

  • 滕州がなお金に属していたとき、諸将は炎暑を理由に進攻を渋ったが、博囉は「主上が自ら西域平定を数年督されたのに暑さで戦を控えたと聞いたことがない」と進軍を促し、金兵を敗って三千余級を斬った。老幼は開門して降り、州は石天禄に属し、蕭鼐爾台・庫庫布哈らに各地の守備を分担させた。九月、燕に凱旋し昌平で狩猟、民の献物を辞退した。
  • 太祖崩御の報に北庭へ急行、哀毀のあまり発病し、戊子(1228年)夏五月、年三十二で薨去した。至治元年(1321年)、純誠開濟保德輔運功臣・太師開府儀同三司上柱國魯國王・諡忠定が追封された。子は七人、長は塔斯、次は蘇肯徹爾・巴圖爾・拜納・額黙根・額布根・阿爾齊蘇。

塔斯――出自と潞州の戦い

  • 塔斯(一名扎拉古)は幼くして異才があり、穆呼哩に「私の志を成すのはこの子だ」と言われた。長じて忠孝を先とし、十八歳で襲爵し雲中に赴いた。庚寅(1230年)秋七月、叛将武仙が潞州を包囲すると太宗の命で救援したが、伊喇布哈の夜襲に不利で沁南に退いた。武仙は潞州を陥れ主将任存を殺した。冬十月、帝親征のもと揚珠吉達とともに潞州を奪還、武仙が夜遁するのを追撃し七千余級を斬った。十一月、帝が鳳翔を攻めた際、塔斯は潼闗守備を命じられた。

塔斯――三峯山の戦いと河南平定

  • 河中が石天応の死後再び金の手にあったが、辛卯(1231年)帝親征で奪還、金の完顔和拉を追撃し斬った。壬辰(1232年)春、睿宗が汝漢間で金兵二十万と対峙、塔斯は親王阿齊台・昆布哈と先に渡河して声援し、三峯山で睿宗軍と合流、大雪の中で金兵を大破した。伊拉布哈・完顔哈達を捕らえ、鈞州を落とした。三月、帝北還にあたり塔斯と呼圖克が河南諸郡を平定したが、汴京・歸德・蔡州のみ未落だった。塔斯は「祖父・父が大業を助けながら私に至って寸功もない、去年上党で失利した罪も万死に値する、汴城の一隅を攻めさせてほしい」と願い出たが、占いにより許されなかった。
  • 癸巳(1233年)秋九月、定宗に従い遼東で金の咸平宣撫完顔萬努を捕らえた(萬努は乙亥歳より東海を保持していた)。甲午(1234年)秋七月、朝見の際、帝が「先皇帝が大業を開いて四十年、中原・西夏・髙麗・回鶻はすでに臣附した、東南一隅のみ未だ服さぬ、朕が自ら出征したい」と諸王に諮ると、塔斯は「臣の一族は代々恩を受けた、報いる機会は今にある、駑鈍とはいえ天威を借りて淮浙を掃討すれば陛下が親臨する必要はない」と答え、帝は喜んで黄金甲・玻瓈帯・良弓二十を賜り、王子庫春とともに南征を総軍させた。

塔斯――南征と薨去

  • 乙未(1235年)冬、棗陽を落とし、庫春が別に襄鄧を攻める中、塔斯は郢を攻めた。郢は漢江に臨み城堅く戦艦も多かったが、木筏で死士五百を渡らせ騎兵で挟撃し大破、俘生口・馬牛数万を得て還った。丙申(1236年)冬十月、鄧州から蘄黄に至り、蘄州は金帛・牛馬を献じて降を請い、符鎮・六安縣・焦家寨を落とした。丁酉(1237年)秋九月、汴京に入り、金主の旧居殿での宴を避け劉甫の家で宴した。冬十月、光州の黄舜卿が降り、大蘇山で数千級を斬り牛馬を千単位で得た。戊戌(1238年)春正月、安慶府まで進み、北峽関で宋の汪統制の兵三千が降った。
  • 秋九月、行宮の宴で大酔し、帝は侍臣に「塔斯の神はすでに逝った、いつまで持つか」と語った。冬十二月雲中に戻り、己亥(1239年)春三月、年二十八で薨去した。

塔斯の子孫――蘇都爾からの世系

  • 子の蘇都爾が幼かったため弟の蘇肯徹爾がまず爵を嗣ぎ、成長した蘇都爾には別に民三千戸の食邑と国王旗幟・五品印一・七品印二が与えられ、家臣に官属を置くこと列侯の故事のごとくとされた。蘇都爾の後、子の呼圖克華、その子呼圖克特穆爾、その子寳格、その子道通と代々嗣いだ。

蘇肯徹爾――威容と嗣爵

  • 蘇肯徹爾は厳厲で賞罰明信、人が犯すことを恐れた。兄塔斯に従い太宗の鳳翔攻めや潼関の戦い、金滅亡後の棗陽・郢攻めに功があった。塔斯の薨後に襲爵し、上京の西・阿爾察圖に営を置いて中都行省・蒙古漢軍を総轄、他行省の監鎮事も先に可否を定めてから上奏させた。帝が使者を遣って見ると威容が凛然としており、他国使者が畏怖して言葉を失う様子が伝えられると、帝は「まことに穆呼哩の家の子だ」と喜んだ。左右が寛恕を勧めると、蘇肯徹爾は「時により寛猛は各々宜しきがある、初めて服した民心はまだ安定していない、守る者が縦になれば事変が起きてから悔いても遅い」と答えた。延祐三年(1316年)、宣忠同德翊運功臣・太師開府儀同三司上柱國・東平郡王・諡忠宣が追封された。子は四人、和爾齊・納顔・姜衛・薩滿(姜衛は別伝あり)。

納顔――力辞と国事の代行

  • 納顔は謙和好学で賢能と称された。蘇肯徹爾の薨後、憲宗が諸子の中から納顔に襲爵を命じたが、納顔は「兄の和爾齊がいる」と力辞し、帝が「和爾齊は柔弱で勝てない」と言っても和爾齊自身も固辞したため、納顔はやむなく「王爵は受けぬが兄に代わって軍国の事を行う」と答えた。和爾齊が国王を襲爵した後、事の巨細は必ず納顔と謀って決した。世祖は潜藩時代からしばしば納顔と論事し、その大義を弁える様子から「後に必ず大用できる」として「色辰」(華言で大賢)の号を与えた。納顔は小心謹畏で、子弟に「先世は太祖に従い矢石の間を出入りし堅を被り鋭を執って四十余年勤労し功名を成した、我が一家の厚恩はこの上ない、驕惰で先王の名を墮とすな」と戒めた。病没時、世祖は悲悼し、至正八年(1348年)中奉大夫・遼陽等處行中書省参知政事・護軍・魯郡公が追封された。子は碩迪・巴顔□爾(底本欠字)。

碩迪――遼東鎮撫と西域従軍

  • 碩迪は通敏有幹才、世祖即位後は宿衛に入り朝儀を典り、後に同知通政院事となった。遼東の温綽・濟喇敏二種の民が冦をなす問題で「先臣の元勲世冑」として派遣を願い出て赴任、渠魁を誅し脅従者を降した。後に納延討伐や西域出使で功を立て、卒後に推忠宣惠寧逺功臣・諡忠敏、資善大夫嶺北等處行中書省右丞・魯郡公が贈られた。

巴圖爾――燕京建都の進言と伐宋

  • 巴圖爾は世祖の征伐に従い先鋒元帥として累功があった。世祖が潜邸にあったとき「天下がやや定まった、主上に回鶻へ駐蹕して休兵息民を勧めたい」と語ったのに対し、巴圖爾は「幽燕の地は龍蟠虎踞、南は江淮を控え北は朔漠に連なる、天子は必ず中に居て四方の朝覲を受けるべき、駐蹕の地は燕でなければならない」と諫めた。世祖は「そなたの言なくば私は誤るところだった」と憮然とした。己未(1259年)秋、諸軍を率いて蔡から宋を伐ち、沿邊諸将に檄を移して世祖の軍と合流、五戦皆捷して大江を渡り鄂に至った。憲宗が蜀で崩御し額哷布格が乱を起こすと、世祖は北還し巴圖爾に軍務を委ねて命を待たせた。世祖が開平で即位し燕に還都した後、「私がここに居て天下に臨めるのは巴圖爾の力だ」と語った。中統二年(1261年)、軍中で卒し、大德八年(1304年)推誠宣力翊衛功臣・太師開府儀同三司上柱國・東平王・諡武靖が追封された。夫人特穆爾は昭睿順聖皇后の同母姉である。子は四人、長は安圖(別伝あり)、次は鼎通、次は巴圖和坦、他姫の子に和通がいる。

托多爾台――憲宗崩御時の護送

  • 托多爾台は崆根果斡の第三子岱遜郡王の後裔で、父は孟克。憲宗の征伐に従い戦功を重ねた。己未(1259年)憲宗が合州で崩御した際、霊駕を護送する任にあたったが額埓布格の叛乱に遭い数日拘留され、追騎に捕らえられ殺されかけたが、親王烏蘇台が「太師國王の裔を殺してはならぬ」と庇い赦された。至元元年(1264年)烏蘇台とともに帰順し、世祖から懐逺大将軍・金虎符・東平達嚕噶齊の世襲を授けられ、宿衛士四十人が駅送に付けられた。在官一紀(十二年)で鎮静不擾、鄆の民はこれに頼って安んじ、年四十二で卒した。子は四人、うち哲伯は書を好み、至元十四年(1277年)東平で官を務め清白の善政で知られ、家蔵の書二千余巻を東平廟学に置いて学徒に講じさせた。後に江南湖北道提刑按察使、浙西按察使を歴任、卒年五十一。子三人は皆早世し、弟の図卜新が職を嗣いだ。図卜新は淳静で民の疾苦をよく知り、旱の禱で雨を得、饑饉に廩を発して賑済し、太中大夫まで進み、士民が石に政績を刻んだ。子五人が代々東平達嚕噶齊を嗣いだ。

托克托――侍衛としての活躍と江浙平章

  • 托克托は国王蘇肯徹爾の孫で沈深有智略。父の薩滿は幼くして頴異、世祖に幼少から養育され南征時も舟に繋がれるほど大切にされたが、内外の礼を正すべく執行した務めの折に近臣博囉を礼違反として捕縛したところ、帝から「令は陛下から出るのに陛下自ら違うのか」と諫言する才を示したものの、病で十七歳のうちに早世した。托克托は幼くして父を失い、母博囉罕の教育のもと侍衛として世祖の親教を受け、特に飲酒を戒められた。至元二十四年(1287年)納延討伐で少数の家奴で敵を撃退し、世祖の激賞を受けた。成宗即位後も寵遇篤く、自ら酒を戒め家人にも厳しくした逸話が帝の耳に入り「扎拉台にトクトのような者は稀だ、大用できる」と称された。資德大夫上都留守・通政院使・虎賁衛親軍都指揮使を経て、江浙行省地方が広大なため重望ある世臣を要するとして榮祿大夫江浙等処行中書省平章政事に進んだ。左右に公私を厳に分けるよう戒め、朱清・張瑄の賄賂(黄金五十兩・珠三囊)を拒み弾劾、帝はその子孫を老臣の家として賞した。豪民の白昼殺人を即座に法で処断するなど治績を挙げ、大德十一年(1307年)、年四十四で位のまま卒した。子の多爾濟は別伝がある。