元史卷九十七 志第四十五下 食貨五

総説

  • 食貨の前志は『経世大典』により篇目を19に立て、天暦以前は詳しく記された。元統以後の海運の多寡、鈔法の変更、鹽茶の利害については、六条正類及び有司の採訪した事跡のうち徴すべきものを本篇に収め参考に備える。喪乱の際に散逸して伝わらないものは欠く。

海運

  • 元は世祖が巴延の言を用いて以来、毎年東南の粟を海道から漕運し京師に供給した。至元二十年に始まり天暦・至順の頃には4万石から300万石以上へと増え、国計に大きな役割を果たした。しかし年月が経つにつれ弊害が生じ、水旱が相次いで公私ともに疲弊し、三省の民力を尽くして毎年の運を支え、押運監臨の官や出納を司る吏が貪欲を恣にし、脚価も時に支給されず収支の均衡も崩れ、船戸は貧乏となり損耗が増した。加えて風濤の不測や盗賊の出没による剽劫・覆没の被害も多く、至元以降さらに深刻になった。これにより歳運の数は次第に減った。
  • 至正元年、河南の粟を加えても江南三省の運は280万石にとどまった。二年、江浙行省及び中正院財賦総管府が諸人・寺観に賜った糧をすべて起運させても260万石に過ぎなかった。汝潁の反乱、湖廣・江右の相次ぐ陥没、方国珍・張士誠が浙東西を割拠して好爵に縻がれながらも貢賦を供さず民を剥いで自ら奉じるに至り、海運の舟は京師に至らぬまま数年が過ぎた。
  • 至正十九年、朝廷は兵部尚書巴延特穆爾・戸部尚書齊履亨を派遣して江浙に海運を徴し、海道から慶元を経て杭州に至らせた。当時達實特穆爾が江浙行中書省丞相、張士誠が太尉、方国珍が平章政事であった。士誠に輸粟、国珍に舟の提供を命じ達實特穆爾に総督させたが、方張両家は互いに猜疑し、士誠は国珍が粟を積んでも京師に輸さないことを恐れ、国珍は張氏が自分の舟を掣肘し虚に乗じて自分を襲うことを恐れた。巴延特穆爾は丞相に事情を申し、正辞と巽言で双方を諭してその疑いを解き、事を成し遂げた。まず海舟を嘉興の澉浦で待たせ、平江の粟は杭の石墩を経てさらに一舎を移動しようやく澉浦に達して舟に載せた。海灘は浅く渋くて艱苦を親身に踏み、舟に載せた粟は11万余石であった。二十年五月に京に赴いた。同年秋、戸部尚書王宗禮等を江浙に派遣。二十一年五月、前年同数の糧を運京、九月には兵部尚書齊齊克布哈・侍郎韓祺を派遣して海運百万石を徴した。二十二年五月、前年の数に2万を加えて運京、九月には戸部尚書托克托呼徹爾・兵部尚書特穆爾を江浙に派遣した。二十三年五月、なお13万石を運京、九月にはまた戸部侍郎博囉特穆爾・監丞賽音布哈を派遣して海運を徴したが、士誠は命に託辞して拒んだ。これにより東南から京師への粟の供給はこの年をもって絶えた。

鈔法

  • 至正十年、右丞相托克托は鈔法を改めようとし、中書省・樞密院・御史臺及び集賢・翰林両院の官を集めて協議させた。先立って左司都事の武祺が、鈔法は世祖の時から行われてきたが撥支の料本や倒易した昏鈔を天下に布く分を除くと、支給すべき名目は宝鈔総庫の料鈔の転撥に集約されており、法本来の趣旨と合わず民間の流通が少なく偽鈔が増えていると建言し、その提案が採られて各名目はすでに総庫からの転支に統合されていた。ここに至り吏部尚書偰哲篤及び武祺は共に丞相の意に迎合しようとし、偰哲篤は「楮幣一貫文省をもって銅銭一千文に当て、鈔を母、銭を子とする」ことを提案した。一同はみな唯々として異を唱えなかったが、集賢大学士兼国子祭酒の呂思誠だけが激しく反対した。
  • 呂思誠は「中統・至元の鈔にはもとより母子の別があり、上料を母、下料を子とする。それを故紙を父、銅を過房の子にするようなものだ」と述べ、座は皆笑った。さらに「銭と鈔は虚をもって実に換えるという点で同じ理屈だ。今、歴代銭と至正銭、中統鈔と至元鈔・交鈔とで五種に分かれれば、民は実を蔵して虚を棄てるだろう、国の利にはならない」と論じた。偰哲篤・武祺は「至元鈔は偽物が多いから改める」と言ったが、思誠は「至元鈔が偽なのではなく人が偽を作るのだ。交鈔が出れば同様に偽が出るだろう。至元鈔は昔からの親戚のようなもので、家の童稚も皆知っているが、交鈔は新しい親戚で誰も見知らぬから、かえって偽が増えるだろう」と反駁した。祖宗の成憲を軽々しく改めるべきでないとも述べたが、偰哲篤は「祖宗の法も弊があれば改められる」と応じ、思誠は「あなた方は法を改めて世皇を上から誣いようとしている、世皇と優劣を争おうとするのか。世皇以降の諸帝はみな孝と諡された、成憲を改めることが孝と言えるか」と述べた。武祺が銭鈔兼行を主張すると、思誠は「銭鈔兼行では軽重が定まらず、何を母とし何を子とするのか分からない、あなたは古今に通じず道聴塗説で人に取り入ろうとしているだけだ」と斥けた。偰哲篤が「我々の策が不可なら公にどんな策があるか」と問うと、思誠は「三字の策がある、『行不得』(行うべからず)だ」と答え、丞相にもこの言を聞かぬよう述べた上で「もし金口河の開削のように成功すれば功はあなた方に、失敗すれば罪は丞相に帰す」と警告した。托克托はその言が直截であることに躊躇したが、御史大夫額森特穆爾が「呂祭酒の言には是と非がある、廟堂で高声厲色するのは不当だ、もしこの言に従えばこの事は終ぞ行われまい」と言い、翌日御史に諷して思誠を弾劾させた。思誠は帰って引き籠り、更鈔の議はそのまま定まり奏上された。
  • 詔には、世祖が中統交鈔を頒行した当初は銭幣兼行の意があったが鼓鋳の規は行われず、後に至元宝鈔を印造し一を五に当てる子母相権の制としたが銭は実際には用いられず、年月を経て鈔法が偏虚し物価が騰貴し姦偽が生じ民用が乏しくなったため、廷臣に詢い輿論を博採した結果、更張が必要と決したとある。中統交鈔一貫文省を銅銭一千文に当て至元宝鈔二貫に準じ、至正通宝銭を鋳造して歴代銅銭と並用し鈔法を実たらしめ、至元宝鈔もそのまま通行させ、子母相権・新旧相済して世祖の立法の初意に副うとした。十一年、宝泉提挙司を置いて鼓鋳と至正通宝銭の印造・交鈔の民間通用を掌らせた。しかし施行後まもなく物価が十倍以上に騰貴し、さらに海内が大乱し軍儲・供給・賞賜・犒労のため毎日夥しい量が印造され、舟車の輸送は絶えず続き、交料が人間に散満して昏軟な鈔は使えなくなった。京師では料鈔十錠でも一斗の粟すら得られず、やがて各郡県は物貨を相貿易するようになり、公私が蓄えた鈔はことごとく通用しなくなり、人はこれを弊れた紙同然に見て国用はついに乏しくなった。

鹽法

大都の鹽

  • 元統二年四月、御史臺は監察御史の言を備えて、京畿の居民は日用に鹽を欠かせないところ、大徳中に商販が市場を掌握し民が高価な鹽を食していたため局を置き官が売った経緯があると述べた。中統鈔一貫で鹽四斤八両を買えたが、後にはその価が倍になってもなお民用を賄えた。泰定間、局官が適材でなく上司も監督を怠り数量が不足する弊が生じ、これに乗じた巨商が局官の侵盗を理由に局の廃止を奏上させ、再び民間販売に戻ったが、以後は鈔一貫でわずか鹽一斤しか買えなくなり、無籍の徒が私に境界を犯して煎売りし利益を独占して官課が侵され、民は高価な鹽を食し貧者は食べられぬ者も多く、朝廷の恤民の意に副わなかった。従前どおり局官を設けて発売すれば課が損なわれず民も恩恵を受けるとした。大都路の三巡院・大興・宛平縣の申請及び戸部尚書の建言も同様であった。
  • 戸部尚書納延は、榷鹽の法は本来国を裕やかにし民を便ならしめるためのものであり、大徳七年に大都運司を罷めて河間運司に兼辦させ、毎年存留した鹽を米舗から発売したが、富商が専利するようになったため南北二城に局十五処を設けて官が売り、当時は法が厳明で民に大いに益があったと述べた。泰定二年、局官・綱船人らの侵盗の弊を理由に再び民販に戻し局を廃止したが、数年もたたぬうちに富商が価を吊り上げる害や運司が言う綱船の弊が生じた。これは立法が厳しくなかったための失着であり、他所には官設の鹽舗と商賈の販売が並存して支障がないのに京城だけ官売の局を廃するのはおかしいとし、本部尚書の言及び大都路の申請どおり南北二城に旧制の局十五処を設け、一局一日に鹽十引を売り、賣鹽官二員を一年で交代させ、公正な発売を責め、中統鈔一貫で鹽二斤四両を買わせ雑物を混ぜず秤も公正にすることとした。売鹽が十貫を超える場合は禁じ、一貫に満たない分は望むままに与える。年末までに不足も横領もなければ一等昇格させ、侵盗があれば例により追及処断する。売る鹽の数は河間運司が四季に分けて京厫に起運し、官定の法量で両平に秤収して各局に分給し、その売価鈔は旬ごとに解送させ本部官が輪番で提調する。巡視の官を置き豪強の兼利の徒が局鹽を頻繁に買って増価転売する者を厳しく罰する。運司には押運の人を厳督させ綱船人らの不正を禁じ、客商の鹽貨は自由に相参じて発売させることとした。四月二十六日、中書省は戸部の擬議どおり奏上し施行された。
  • 至元三年五月、大都京厫が戸部に申報し、至元二年の京厫発売食鹽1万5千引のうち、各綱の渰没・短少分848引を除き実収1万4,152引、うち1万100引を各局に発売済み、残り4,052引がまだ支給できていないとし、至元三年の食鹽は例により河間運司から1万5千引を起運し京に赴かせ民用に欠かせないようにすることを求め、戸部はこれを承認して河間運司からの1万5千引の運送を議定した。時価・蓆索等の費用は運司が鹽課銭内から支出し、産業のある船戸を募って互いに保識させ、千引を一綱として各埸官一員及び本司奏差または鹽運巡鹽官が一綱を管押し、大都興国等埸の見収鹽のうち数を検し分派・分司官が監視のもと両平に支収させ、期限三ヶ月以内に京厫に交納し文憑を取り部に赴いて照会消却させた。雑和した沙土・湿潤・短少があれば本綱の船戸・押運埸官・奏差・監運の諸人に均等に賠償させ、例により坐罪させることとし、中書は戸部の議どおり施行した。
  • 至正三年、監察御史王思誠・侯思禮等が建言した。京師は大徳七年に大都鹽運司を罷めて官が鹽を売る局十五処を設けたが、泰定二年に不便を理由に廃止し、元統二年に再びこれを復して十年経つ間に法は久しく弊が生じ、船中では侵盗・滲溺の患があり、局に入れば灰土を和える不正があり、名目は「一貫二斤四両」でも実際には一斤にも満たず、潔浄で斤両の足りるものは上司提調の数か所だけであった。また常白鹽1,500引には船50艘を用い毎年四月に起運、官鹽2万引にも船50艘を用い七月に起運するが、運司の遣わす人が威福を擅にし、南は臨清、北は通州まで河道の舟楫の往来を妨げ、名は和顧でも実は強奪であり、一年中千里の内で富商巨賈の米粟を載せる者や達官貴人の家族を載せる者は重賄を得て通過させ、拘留されるのは貧弱無力な者ばかりであった。舟は小さく不備で滲溺・侵盗の弊病が多く、京厫に着いても速やかに交収されず、無為に淹留した船戸は妻子を鬻ぎ舟楫を質に入れる者も多く出た。これにより客船は狼顧して進まなくなり、京師の百物が高騰する原因となった。試算すると官鹽3万引の脚価は一引ごとに中統鈔7貫、計30錠、十五局の官の年俸だけでも576錠に上り、賃房・短脚・蓆草等の費用は別途かかる。局を設けた当初は民が鹽を高値で食べる弊を救うためだったが、官売の弊がかえって商販の賎さに及ばぬ結果を招いており、国家の費えを重ねて百物を高騰させるのは忍びない。憲台の議に従い中書省が鹽局及び来歳の起運を罷め、鹽商を通じて自由に興販させるべきとし、常白鹽の船50艘も江南の造船地で新たに造り、成った後は運司が人を雇い運載させれば舟楫が通じ商賈も集まり京師の百物も安くなり鹽も安くなろうとした。御史台はこの言を中書に呈し、河間運司の申請も同様であった。戸部は運司・大都路の意見が監察御史の言と一致しているため、元設の監局は廃止すべきであり客旅の興販に任せ、常白鹽は内府必用の物として従来どおり起運すべきとし、二月初五日、中書省は戸部の擬議どおり奏上し施行された。

河間の鹽

  • 至正二年、河間運司が戸部に申報し、本司の毎年の額鹽及び余鹽は合計38万引・課鈔114万錠に上るが、近年各処の私鹽・犯界鹽の販売が多いのは軍民官が禁治を怠ったためであり官課を侵し鹽法を渋滞させていると述べ、都省に詔旨を頒下して所司に宣諭するよう求めた。本部が中書省に呈し、四月十七日の奏上により戒飭の旨が降された。七月、また河間運司は課の徴収は郡縣が官鹽を買食することに全て依っているが、前年河間等路が旱蝗に遭い救済を受けても民力が回復せず鹽を買う者が少なく、加えて古北口等の把隘官・軍人が用心を怠り大都路所属の有司も奉公せず、民が疙疸鹽を街市で売るのを許してしまい(紫荊関で犯人張狡羣等が疙疸鹽1,600余斤を運んでいたのを捕えた例あり)、至元六年三月から今に至るまで犯行は百件近くに及ぶとし、報告しなければ年末に課が不足すると恐れる旨を述べた。本部は中書省に呈し樞密院と協議して榜文により禁治した。三年、河間運司は本司の毎年の額鹽35万引に近年余鹽3万引を加えたが、元来簽した竈戸5,774戸のうち逃亡を除き現存4,301戸に過ぎず、毎年の額鹽をこの疲弊した戸に無理に負わせているところ、旱蝗が重なり民に鹽を買う資力がないため、至正二年より権に余鹽3万引を免除し豊作の年に再開したいと申請した。本部は銭糧の支用が不足するため権に1万引の煎製を停止する擬議を出し、正月二十八日戸部の擬議どおり奏上され施行された。
  • その後運司はさらに、至元三十一年の本司の辦鹽額は25万引であったのが累増して35万引となり、元統元年にさらに余鹽3万引が加わり、既に都省に奏准され1万引の煎製を住めたほかまだ2万引が残っており、これも従前どおり現戸に強いるのは難しいため、余鹽2万引もあわせて住煎するのが便益であると申し出た。戸部はこれを中書省に呈し、余鹽2万引の住煎を1年権に許可し、至正四年からは従前どおり煎辦することとし、四月十二日、戸部の擬議どおり奏上され施行された。

山東の鹽

  • 元統二年、戸部は山東運司の申請(濟南路が副達嚕噶齊の鄂勒哲・同知の實喇特穆爾の言に依拠)を承け、大都・河間運司に倣い巡鹽官12員を増設し専ら巡禁させることを議した。本部の詳査によれば山東運司の歳辦は鈔75万余錠、行鹽の地は周囲2万余里に及ぶのに運判一員だけでは巡歴しきれず私鹽の往来が国課を侵すおそれがあり、済南路との協議どおり許可されるべきとした。中書省は戸部に再議させ、河間運司は奏差12名・巡鹽官16名を、山東運司は奏差24名を設けているところ、比例して巡鹽官を増設する代わりに元設奏差のうち12名を減らすことで具申し、中書省はこの案どおり許可した。
  • 三年二月、山東運司は臨朐・沂水等縣の申請(十山九水で居民が少なく元来食鹽の地であったのが後に行鹽の地に改められ民が高価な鹽を食べるようになった不便)を受け、居民の戸口の多寡に応じ課鈔を輸させる食鹽の地に戻すことを議し、運司が分司及び益都路・下滕嶧等州に協議させたところ、食鹽が便であるとの意見が多く、運使の辛朝列の牒により、零鹽は登萊等處の例に倣い局官を銓注し局を置いて民に散売すれば、大課を損なわず官も私鹽の憂いを免れ民も刑配の罪を免れるとした。戸部は滕嶧等處に十一局を増置し、登萊三十五局の例に倣い銭穀官の中から局官を通行銓注する案を議し、これも許可された。
  • 至元二年、御史臺は山東粛政廉訪司の申請(濟南路の章丘縣申請)を承け、山東運司の額鹽28万引のうち客商の承辦分を除く現存13万引が年末近くまでまったく買い手がなく、新城・章丘・長山・鄒平・濟南は鹽埠に近く大小清河に接して客旅の興販が容易であるから商河・滕嶧等處に倣い食鹽に改め8千引を権派することとし、固堤等埠は元統三年より例により均散されることとしたが、山東運司が上司の明文もなく擅に民に食鹽を散じ課鈔を追納させ、民の生業を妨げていること、至元元年正月・二月に中書戸部からの符文を受けながらこれに従わず、依然として州縣に人を馳せ督責し百姓を追徴していたことが問題とされ、憲台が取り調べるべきとされたが、監察御史からも同様の指摘があり、辦課の時期に取り調べを行うかどうか中書省が判断すべきとされた。戸部は行鹽・食鹽の地の定めが既にあるので改正すべきとし、御史台の求める取調べは辦課時期にかかるため別議とし、中書省はこの案どおり施行した。

陜西の鹽

  • 至元二年九月、御史臺は陜西行台の咨(監察御史特穆爾布哈の建言)を受け、奉元東道を巡歴した際、陜西運司官が転運の道を考えず毎年予め人を分遣して引を各州縣に散じ、旬月のうちに杖限をもって鈔を追徴し民の有無を顧みないことを指摘した。他の運司は運官が商を召して発売するのに対し、陜西では鹽司が民戸に散じており、陜西行省の食鹽戸は課額203,164余錠に上り、うち鞏昌・延安等處の認定課鈔16,271錠、慶陽・環州・鳳翔・興元等處の歳辦課17,985錠であるが、関陜の旱饑で民が流亡しているため、至順三年の中書省の咨により十分の四を減免しても既に三年を経てなお欠負があるとし、また戸口の凋残が八九割に及び、復業した者も家産が既に空、豊作年でも物価が甚だ安く鈔を得難いとした。本司官は有司に高低の分無く一律に引を配り、少ない者でも二三引、一引の収価は3錠に上るため、富家でも応辦は難しく貧家はなおさらで、緩やかにすれば利子を払い借財し、急げば妻子を典鬻するに至り、引を得ても運送の力がなく鹽商に低価で買い叩かれ、旧債が未償のうちに新引が到来し、民力には限りがあるが官賦は無窮であるとした。また寧夏所産の韋紅鹽池は課程を辦じておらず、鞏昌等處は例により乾課を認納し便に食用に供する他、その池は陜西環州に百余里隔てて接し、紅鹽は味が甘く価も安いが解鹽は味が苦く価も高いため、百姓が私に販売し禁じ難いとし、河東鹽池については撈鹽戸の食鹽を除き課引数を運官に募商興販させ、行鹽地では諸人の侵擾を禁じるべきとした。韋紅鹽の法は運司が毎年官吏を輪番で監視させ民の採取を許し、抽分・発売の法を立て一引ごとに収価鈔3錠とし、黄河以西では民の食用に任せ、運司の元額課鈔はときに黄河東南に混じれば私鹽法で罪すべきとし、陜西で解鹽の興販を禁じないことでこれを補い官民両便を図るべきとした。
  • 陜西漢中道粛政廉訪使胡通奉もまた、陜西百姓は解鹽を食すべきところ、飢饉が明けて流民が復業しつつあるところに鹽吏の恢辦のみを気にする姿勢で貧富を問わず引を散じ課を収め、鹽を得るまでに時間がかかること、地が遠く脚力も乏しいことを指摘し、今後は黄河以東の民には解鹽を、以西の民には計口で韋紅鹽を課すのが良く、官も民も煩わされず課も損なわれないと述べた。また解鹽は風で結ばれ、韋紅鹽は地から産する、東鹽は苦く西鹽は甘い、美を捨てて悪を取ることはあるまい、と論じた。本臺はこの意見を省部に呈し戸部に議させたところ、都省が官を選んで陜西に赴かせ行省・行台及び河東運司官と協議させることとなり、至元三年、都省は陜西行省に咨し河東運司正官一員を省に赴かせ再協議させた。三月初二日、陜西行省官・李御史・運司同知郝中順が鞏昌・延安・興元・奉元・鳳翔・邠州等の官及び総帥汪通議等と会議した結果、特穆爾布哈・胡通奉の言のとおり黄河を境として陜西の民には韋紅二鹽を食させ、解鹽は従来どおり西行させ紅鹽は東渡させず、咸寧・長安・録事司三処の未散分は既散の州縣と同様に乾課を認納させ、運司の既散食鹽引価と合わせ通行按季輸納すれば課鈔7万錠を確保でき民も害されないとする意見が大勢を占めた。ただし郝同知だけは運司の辦課が毎年45万錠あり陜西該辦分は20万錠なのに7万錠のみを認めれば残り13万錠はどこから恢辦するのかと異論を唱え、議は合意に至らず郝は病と称して出仕せず、後に定論を得ないままとなった。戸部が調べたところ至順二年に中書省が兵部郎中及び朝散を陜西行省官と協議させ涇州白家河を境と定めて民の食用に任せる措置がとられており、これに従い所在の軍民官に厳禁を督させ韋紅二鹽が境を犯し課を侵さないようにすべきとし、中書は擬議どおり施行した。

両淮の鹽

  • 至元六年八月、両淮運司は行戸部尚書・運使王正奉の牒(本司は至元十四年の創立当初、鹽課は未だ定額がなく実際の額に従って辦じていたが、以後累増し65万70余引となり、客商が引を買って自ら埠に赴き支鹽し、埠官が竈戸に斛面を加算させ鹽商を通じさせたため鹽法が乱れたこと)を受け、大徳四年に中書省が奏じて法を改め倉を立て綱を設け、儧運して袋に撥支・発給する制に改めて弊を除いた。本司の行鹽の地は江浙・江西・河南・湖廣に及び所轄の路分は上江下流に鹽法が通行し、至大間に正額に加え余鹽30万引を煎添し、合計95万70余引となった。客商が揚州東関に運んだ鹽は城河に停泊し発放を待つが、待機は不下30〜40万余引にも及び発放が滞った。至順三年、前運使韓大中等はさらに、毎年の売鹽額95万70余引について客商が引を買い勘合を関給されて倉に赴き支鹽するが、船の脚力は遠倉ならば一引12〜13貫、近倉でも7〜8貫を要し、揚州東関まで運んで発放を待つ間、船稍人らは鹽主の目が届かぬのに乗じて自分の物同然に侵盗を働き、事が発覚しても厳しく懲治してもなお禁止しきれず、盗んだ鹽は舊船を折って弁償するに過ぎず数量どおりの徴収は難しかった。これにより裏河の客商は資本を虧損し、外江の興販も欺かれ、百姓は不潔な鹽を高値で買うことになり公私ともに害を受けた。揚州東関城外の沿河両岸には官民の空閑地が多くあり、鹽商が自ら基地を賃買し倉房を建てて支運した鹽袋を揚州に籍定・貯置し発放を待ち、期を臨んで船で真州に運んで発売すれば侵盗の患を防ぎ悠久の利となると述べた。中書戸部及び河南行省に照勘・議擬を申請したが文書往復が紛紜として決せず、久しくして戸部は運司が既に収めた客商の帯納挑河銭のうちから鈔1万錠を撥して倉房を建て、都省が河南行省に咨して官を委任し運司とともに空地を検分してから行うこととした。

両浙の鹽

  • 至元五年、両浙運司は中書省に申報した。本司は至元十三年の創立当初、額は未定であったが十五年に額鹽159,000引と定まり、以後累増して45万引となり、元統元年にはさらに余鹽3万引が加わり、毎年総計48万引となった。一引の官価は当初中統鈔5貫であったが、以後9貫・10貫と増え35・56・100を経て今は3錠に達し、毎年の正課は中統鈔144万錠に上る。初年に比べ引数は十倍、価は三十倍に増え、課額はますます重く煎辦はますます難しくなった。行鹽地界に拘束される戸口には限りがあり、以前は客商が埠で支給を受ける方式で検校所を設け山鹽の袋を検出していたが、支査の停滞が生じ、延祐七年、両淮の例に倣い倉を立て綱官が船を押して埠に到り鹽を運んで倉に収め客旅が倉で支鹽する方式に改めた。当初は便であったが今や二十余年を経て綱・埠・倉の官の人事が適材を得ず専ら掊克に努める弊が生じている。淮浙の風土は異なり、両淮は四省にまたがり課額は大きいが地は広く民も多く消費者が多いため辦集しやすいが、本司の地界は江に沿い海に枕し、煎鹽の亭竈は海隅に散在し、行鹽の地も裏河では両淮に隣接し海洋では遼東に通じ、番舶の往来もあり私鹽の出没が官課を侵し、刑禁があっても防ぎきれず鹽法が壊れ亭民が消耗する。その弊は五つある。
  • 本司所轄の埠司34処は各々令・丞・管勾・典史が管領し、竈戸・火丁は炎暑の月に昼夜休まず働き、陰雨に遭えば手をこまねき、貧窮の小戸は生計の術がなく衣食の資は工本に頼るが、資本を維持できる家は十に一二しかなく、有司はその労苦を顧みずまた他役を課す。各埠に元簽の竈戸は17,000余であったが水旱疫癘による流移死亡で今は7,000余しか残らず、まだ補充もされていない。抛下された額鹽は現戸のみに強いる状態であり、早く補充と恤養を図らねば現戸を損ない大課を虧損すると懸念される。
  • 設置された35綱の監運綱司は船戸を召募し埠ごとに日煎月辦の課額に応じ官が水脚銭を給して埠で支装させ、一引ごとに正額400斤に折耗等10斤を加え二袋に分けて綱官が押送し撥された倉に交納する仕組みであるが、船戸の弊が久しく積み重なり、埠での装鹽の際に埠官吏・司秤人に賄賂を贈って斤両を重くし硬袋を作り、出埠後は途中で盗売し灰土を混ぜて補い、倉に着いても倉官・司秤人が賄賂を受け取り秤盤も適正に行われず在倉の間にさらに消折する。仕組み自体は緻密であったが、いっそのこと客商が埠で直接支給を受ける方式に戻せば綱運の俸給・水脚の費用を省け鹽法も一新できるとした。
  • 本司の額鹽48万引に対し行鹽地の両浙・江東は人口約1,906万で毎日一人当たり鹽4銭1分8厘を消費するとすれば計449,000余引で足り、賣り尽くしても31,000余引の余剰が出る計算になるが、毎年督責して戸口に応じ購入させる一方、荒歉が連年続き流亡者も多く、瀕江並海では私鹽が公然と行われ軍民官も防禦を怠っているため、各倉に累積し未売のまま滞留する鹽は九十余万引にのぼり支散のあてがない。早く定制を降し、賞罰を明らかにすれば私鹽が減り戸口の食鹽も廃弛せずに済むとした。
  • 毎季に退引を拘収する制があり、客人が鹽を運んで所定の売地に到れば水程・止宿の店肆を報告し退引を納めるべきところ、各處の提調官が検挙を怠り吏胥や坊里正等が分例銭を求め満たされなければ何かと難癖をつけて客人を留め、あるいは発売が滞って他所に移り水程が変われば引の拘納が行われず埋没して奸民が私鹽を隠匿する隙を与え、所司も検勘しない。善良な者は官鹽を売った後に引目を郷胥に投じ、狡猾な者は納官せずに鹽徒と結託して私鹽興販の口実にする。有司官吏の黜降の罪名を明定し退引をすべて実際に官に還させれば私鹽を口実にする者を無くせるとした。
  • 本司は延祐七年より杭州等七倉を改立し部轄を置いて各綱船戸が運んだ鹽袋を貯め客人に順次支鹽させる定制を設けたが、近年各倉官はもっぱら私欲を貪り出納の間に両方から利を取り、綱船が倉に着けば必ず船戸の賄賂を受けて灰土混入を許して収納するか、船戸が良質の鹽を運んでも賄賂がなければ故意に事を生じさせ留難し、河岸に停泊させて侵欺盗売するなど倉官・監運人の弊が多く、各倉の積鹽は九十余万引に及び新旧が混在して廊屋に収まりきらず、走鹵消折の害も軽くない。これは客人が買った物ではあるが課鈔は入官しているため、年を追ってさらに患いが増す恐れがある。もし従前どおり客商が自ら脚力を備え埠で支装すれば停積を免れるとした。
  • 五つの弊のうち各倉の停積が最も急務であり、一年の売却可能量は444,000余引にとどまるところ、二年かけても売り尽くせないほど滞積があり、なお煎運が続いて倉に積み重なっている。特に重臣を選び拘該官府と協議させ時宜に応じて法制を改め、良規を定めて黎元を恵み済うべきであり、住煎中の余鹽3万引についても江浙行省の咨文を中書省に差し出し裁可を求めた。戸部は運司の言のうち余鹽3万引を除く他の事案はまだ行省で明白に定擬されていないとして、行省が咨し従長協議することとし、六年五月、中書省は奏して官を選び江浙鹽法を整治させることとし、江浙行省右丞納琳及び省領官趙郎中等に提調を命じたが、納琳は他の事情で辞任した。至正元年、運使霍亜中はまた、両淮・福建運司はいずれも余鹽を既に住免しているのに本司だけ異なる扱いはおかしいとして例により余鹽3万引の住煎を求め、中書省は奏上して余鹽3万引を鹽法通行まで倚閣する旨の㫖を得た。二年十月、中書右丞相托克托・平章特穆爾達實等が奏し、両浙の食鹽は民を害することが甚だしく江浙行省官・運司官もしばしば言上しており、世祖皇帝の旧制に従い近鹽地十里以内は民の認買を認め、既設の鹽倉・綱運を廃止し客商が運司に赴いて引を買い埠で支鹽して行鹽地方で発売できるようにすべきとし、また検校批験所四処を設け廉幹の人を選んで運司直属とし、客商の運鹽の秤盤・袋法・引目の検問を運司が常に行うこととした。至元十三年の歳辦鹽課は額が少なく価も軽かったが今は45万引に増え価も重く転運が滞っている状況を踏まえ、戸部は至正二年より両浙の額鹽を10万引減じ、鹽法が流通すれば元額に戻すこととし、散派する食鹽は住罷とすべきとし、詔によりこれに従うことになった。

福建の鹽

  • 至元六年正月、江浙行省は福建運司の申請(本司の歳辦額課鹽13万9引180余斤のところ、海口等七埠で至元四年閏八月末までに積み残った附餘・増辦等の鹽101,962引262斤があること)を受け、至元五年の額鹽は天暦元年の例に従い正額5万引を住煎し工本を給さず、上記の余鹽5万引を正額に準じ省官本鈔2万錠を免除する形とし、当年は額鹽8万9引180余斤(計13万9余引)のみを辦じ通行発売して正課を辦納し、残る余鹽51,962引は翌年の軍民食鹽に予め充てるのが官民便益であるとした。本省の擬議どおり中書省に呈し戸部が検討したところ同意され、下される余鹽51,962引は発売して鈔とし通行させ本省に回咨した。至元元年、福建・山東の食鹽を民に配当することの弊害が甚だしいことを詔し、行省の監察御史・廉訪司に拘該有司官と共同で議論させた。二年六月、江浙行省左丞と行台監察御史・福建廉訪司官及び運使常山李鵬挙・漳州等八路の正官が協議したところ、食鹽の不便には三点あるとされた。第一に余鹽3万引を正額と同一視するのは難しく免除すべきこと、第二に鹽額が重すぎるので広海の例に倣い一引につき2錠に減じるべきこと、第三に食鹽の配当をやめすべて客商に通行させるべきことであった。
  • 福建の鹽課は至元十三年に始まり、当時の現鹽は6,055引で一引9貫、二十年には煎売鹽54,100引で一引14貫、二十五年に一引1錠に増え、三十一年に鹽運司を立て鹽額を7万引に増やし、元貞二年には一引の価を15貫増し、大徳八年に運司を罷めて宣慰使司に併せ辦収させ、十年に都提挙司を立て鹽額を10万引に増やし、至大元年に各埠が余鹽3万引を煎出し、四年に運司を再建して額を13万引と定め価鈔を2錠に増し、延祐元年にはさらに3錠に増えた。運司はまた権に法を改め建・延・汀・邵は従来どおり客商興販とし、福・興・漳・泉四路は民食に配当し続けたが、この害は三十余年に及んだ。本道は山が多く田が少なく土は瘠せ民は貧しく、鹽額は増える一方で八路の秋糧は毎年278,900余石、夏税は11,500余錠に過ぎないのに鹽課は13万引で該当鈔は39万錠に上り、民力は日々疲弊し催徴のたびに貧者は妻を質に入れ子を売って課を輸し、規措できぬ者は逃亡他方に及んだ。近年の漳寇の擾乱もこれに由来する。運司官は恢辦のみに専念し恵みを施す余地がなく、詔書の趣旨に従い余鹽3万引を罷め食鹽の配当の弊を除き、八路とも客商の通行発売に任せれば官民両便になるとされ、正額鹽の価は広海鹽の例に倣い一引中統鈔2錠とすべきとされ、都省が処理することとなった。江浙行省は左丞の協議どおり中書省に呈し戸部に定擬させ、至正三年より余鹽3万引を権に減免し食鹽の散派を住罷することとしたが、正額鹽価の減額は広海提挙司の事例と異なるため別に議論すべきとされ、十月二十八日、右丞相托克托・平章特穆爾達實等がこの擬議どおり奏して施行した。

廣東の鹽

  • 至元二年、御史臺は江南諸道行御史臺の咨(監察御史韓承務の建言)を受けた。廣東道所管の鹽課提挙司は至元十六年から額鹽621引を辦じていたのが累増し35,500引に至り、延祐間にはさらに余鹽が加わり正額と合わせ50,552引になった。竈戸は工程に窮し官民ともに催督に迫られる状態が十年を超え、泰定間に憲台・奉使宣撫が上奏して余鹽15,000引を減免したが、元統元年に都省が支持の不足を理由に既減の余鹽を従前どおり煎辦させ、今すでに2年経つがまだ住罷されていないとされた。論者は廣東が海道を制し諸番の船商が輳集し民物も富庶であり辦納は容易だと考えるだろうが、それは実情を深く知らぬためであり、本道の七路八州は平地が乏しく嵐瘴毒癘もあり、民は刀耕火種で巣居穴処し険しく貧しい暮らしをしているため、額外の鹽を煎じても誰に売るのかという状況である。いわゆる富庶とは城郭の商賈や舶船交易に携わる数家に過ぎない。竈戸・鹽丁の十のうち三四が逃亡し、官吏は罪を恐れ現存戸に無理に煎させている。本道は蛮獠に近接し民俗も頑悪であるため、有司が責め立てを厳しくすれば怨みを買い事を生じる恐れがあり、この微利を捐てて大信を示せば疲民には幸いであるとされ、中書省に呈し戸部が定擬した結果、元統三年より廣東提挙司の辦する余鹽を5,000引減じることとなり、十月初九日、中書省が奏上し㫖により従うこととなった。

廣海の鹽

  • 至元五年三月、湖廣行省は中書省に咨した。廣海鹽課提挙司の額鹽は35,165引、余鹽は15,000引だが、近年黎賊の害により民が生業を保てず正額も4万余引が虧損したまま庫に収まっており、これ以上余鹽の添辦を求めれば困苦から立ち直れない、事は利害に関わるため憐察を得て免除を聞奏すれば元額のみで済ませられ辺民の患いも防げるとした。戸部は、この余鹽をすべて辦じるのは元額でない上、本司は海隅に僻在し所轄の竈民がしばしば劫掠に遭い死亡逃竄して民物が凋弊しているとし、余鹽15,000引のうち5,000引を減じ民力を舒めるべきと議し、中書はこの擬議どおり奏上し㫖により従うこととなった。

四川の鹽

  • 元統三年、四川行省は鹽茶転運使司の申請を受けた。至順三年に中書が定めた添辦余鹽1万引のほか両浙運司の分5,000引も帯辦するよう指示され、正額鹽と併せて煎辦してきたが支用は問題なかったため再議したところ、卑司の各埠にはもはや余鹽の煎出余地がなく竈戸に無理に承認させるほかなく、その計画も既に足りているのに以後年ごとに申覆しなければ竈戸が逃竄し正課に支障が出る恐れがあるとし、憐察により中書省に咨し辦する余鹽1万引のうち両浙帯辦分を減じるべきと求めた。また分司運官の言によれば、四川の鹽井はみな万山の間にあり腹裏・両淮とは労苦の程度が異なるのに余鹽を帯辦させ続ければ竈民が疲弊するとした。行省は中書省に咨呈し奏上した結果、㫖により帯辦の余鹽5,000引を権に倚閣することとなった。

茶法

  • 至元二年、江西・湖廣両行省は茶運司同知萬嘉律の言(茶由増印について)を中書省に咨した。本司の毎年の額課は28万9,200余錠で、門攤・批験鈔を除き茶引100万張(一引12両5銭、計25万錠)、末茶には官印の筒袋で管理し、零斤の草茶由帖は毎年1,308万5,289斤印造し課鈔29,080余錠に上るとした。茶引一張は茶90斤に相当し客商の興販に用いられ、小民の買食及び江南産茶地の零斤採売には由帖が必要だが、春に発売された茶由は夏秋には尽きて民間で不足する。これを考えると茶由は数が少なく課も軽く民用には便利だが不足し、茶引は課が重く数も多く商旅の興販には十分だが年末に滞留も生じるとし、毎年印造する茶由を十分の二増やし計261万7,058斤とし、引目内の官鈔一斤につき1銭3分8厘8毫8糸を収める計算で鈔7,269錠7両を増やし、比較して引目29,076張を減じれば引が滞らず茶の私積も無くなるとした。中書戸部は、江西茶鹽司の歳辦を公据10万道・引100万・計鈔28万9,200余錠と定擬し、茶引は商販に便利だが山埠の小民は茶由に頼っているため、歳辦茶由1,308万5,289斤(一斤1銭1分1厘1毫2糸、計鈔5,816錠7両4銭1分)とし、引を23,264張減じる(茶引一張は茶90斤を造り官課12両5銭を納める)とした。茶由を十分の二増やせば261万7,058斤(一斤につき1銭3分8厘8毫8糸増収、計鈔7,269錠7両)となり、余った鈔で官課を損なわず民用にも便利であるとし、本省の擬議を承認し中書省に咨し行省に移し施行された。
  • 至正二年、李宏が上奏した中に、江州茶司の据引の不便を指摘する一節があった。榷茶の制は古には無く唐から始まったもので、元は江州に榷茶都転運司を設け、各路の産茶地に提挙司七処を置き、専ら据引の散賣・国課の辦じ方を管理し誰も逆らえない状況にあった。毎年十二月初め各処の提挙司の官吏を集めて翌年の据引を受け取らせるが、司に着いても旬月の間官が集まらず、吏胥は求めるだけ求めて満足すればようやく据引を給する有様で、この頃には既に春を過ぎており、本司に戻ってようやく点対して給散する頃には、また分司官吏が各処に到り戸を検して据引を散売する際、一引十張のうち正課125両のほかにさらに中統鈔25両を「搭頭」と称する事例銭として取り、分司官吏の饋□(原文欠字)の資に充てていた。提挙司は榷茶の名を持ちながら実際には据引の専売を担う任すらできず、運司官吏の資財調達に働くようなありさまで、上が行えば下も倣うのが世の常であり、提挙司の官吏も分司の真似をして遷延した。茶戸が据を受け取り家に戻る頃には既に五六月に及び、途中さらに二三千の据引を留めて茶戸の消乏を口実に新興の戸に転売し、一据ごとにさらに中統鈔25両前後を取り各自の私腹を肥やしていたが、その銭がどこから出るのか誰も知らず、茶戸の苦しみは言葉にできぬほどであった。据を手にして碾磨を始めようとする段階でも吏卒が門を訪れ催促し、当初の限は茶がまだ売れていないのにどうやって銭を得るかも分からず、裕福な家は別に工面できても力の薄い者は例外なく拘留され家財を典鬻してでも官限に応じねばならず、限を過ぎればさらに上司が緊迫し重複して非法に催促するに至った。これはみな運司の給引の遅れと分司の苛酷な取り立てに起因し、茶戸は利を求めたはずが逆に害を被り、日々消乏し逃亡が実情であるとし、今もし旧制を明らかにし毎年正月には運司がすべての据引を提挙司に給付し随時提挙司が民に散派して倉に留め置かせず、造茶の時月を誤らせないようにし、期限を過ぎれば別に定罪し、運司・分司が従前どおり据引を私に散売することを禁じ、違反者は粛政廉訪司が例により究治すべきとすれば、茶司の貪黷の風も改まり茶戸も損乏の害を免れるとした。中書省はこの言を戸部に送り定擬させ、さらに江西行省に咨し官を委任して茶運司と協議させ、便益であれば言のとおり施行することとした。