総説
- 『洪範』の八政では食が首に置かれ貨がこれに次ぐ。食貨は養生の源であり、民は食貨がなければ生きるすべがなく、国も食貨がなければ用をなすことができない。そのため古来、国をよく治める者は民から取らないことはないが、過度に取ることもなかった。その要は入るを量って出るを制することにある。『伝』にいう「財を生ずるに大道あり、生ずる者衆く食う者寡なく、これを為す者疾く、これを用いる者舒やかなり」とは先王の理財の道である。後世はそうではなく、漢唐宋を見れば、立国の初めにはそれぞれ成法があったが、数代を経ると驕侈が生じ、しばしば取ることに度なく用いることに節がなくなった。ここに漢には告緡・算舟車の令があり、唐には借商・間架税の法があり、宋には経・総制の二銭があり、いずれも民を掊って国に充てたが、ついに民は困窮し国は滅んだ。嘆かわしいことである。
- 元は初め民から取ることに定制がなかったが、世祖が立法するに及んで一に寛に本づいた。宗戚には歳賜があり、凶荒には賑恤があり、おおむね親親愛民を重んじた。とりわけ農桑の一事に惓惓としたのは理財の本を知る者と言える。世祖はかつて中書省臣に「凡そ賜与は朕の命があっても中書はこれを斟酌せよ」と語った。成宗もまた丞相オルジェイらに「毎年天下の金銀鈔幣の入るところはいくらか、諸王駙馬への賜与および一切の営建の出るところはいくらか、会計して聞せよ」と言った。オルジェイは「歳入の数は金1万9千両、銀千万両、鈔360万錠。なお用に足りず、至元鈔本からさらに20万錠を借りている」と答え、「今後は節用を請いたい」と言い、帝はこれを嘉納した。世に元の治を至元・大徳を以て首となすのはこのためである。それ以後、国用はますます広がり、税糧・科差の二者のほか凡そ課の入るところは日に月に増し、天暦の頃には至元・大徳の数に比して二十倍にも増した。それでも朝廷にはいまだ一日の蓄えもなかったのは、入るを量って出るを制することができなかったためである。とはいえ前代の告緡・借商・経総制の類は元にはすべてなく、寛と言えよう。よく四海を兼有して百年に及んだのはこれゆえである。
- そこで前史の法に倣い、その出入の制の考うべき者を取り、経理・農桑・税糧・科差・海運・鈔法・歳課・塩法・茶法・酒醋課・商税・市舶・額外課・歳賜・俸秩・常平義倉・恵民薬局・市糴・賑恤の19項に分けて篇にまとめ、食貨志とする。
経理
- 経界が廃れて後に経理の制が生まれた。魯の履畝、漢の覈田はいずれもその制である。民の強者は田多くして税少なく、弱者は産を失っても税が存するという弊は、経理によらなければ除けない。しかし経理の制がもし善くなければ、その害はかえって甚だしくなる。
- 仁宗延祐元年、平章章律は「経理は大事で、世祖の時にすでに一度行われたが、その間の欺隠は多く、熟田を荒地とする者、差役を懼れて析戸する者、富民が貧民の田を買いながらその旧名のまま輸税する者があり、これによって歳入は増えず小民は病を訴えている。経理の法を行い、田を有する家および各位下・寺観・学校・財賦等の田をすべて実のままに自首させれば、税入に隠すところがなく差徭も均しくなるだろう」と言上した。そこで章律らを江浙に、尚書鼐智・宻鼎らを江西に、左丞陳士英らを河南に遣わして経理を行わせ、行御史台に分台を命じて監督し、枢密院には軍を以て防護させた。
- その法は先に期限を榜示し、民に40日以内にその家の所有田を自ら官に申告させるもので、熟田を荒地・田を蕩地とする、逃亡の産を隠し占める、官田を盗んで民田とし民田を官田と指す、僧道が田で作弊するなどの行為はすべて他人の告発を許した。10畝以下は田主および管幹佃戸をともに杖77、20畝以下は加一等、100畝以下は杖107、それ以上は北辺に流竄し、隠田は没官とした。郡県の正官が査勘せず脱漏があった場合は事に応じて論罪し、重き者は除名とした。
- しかし期限が急で貪刻な者が事を用い、富民・黠吏が結んで奸をなし、無を有として虚しく籍に記す例が多く、人々は生業を失い盗賊が並び起こって弊害はかえって以前より甚だしくなった。仁宗はこれを知り、翌年には三省の自実田租を免ずる詔を下した。二年、汴梁路総管塔爾海もその弊を言上し、河南の自実田は延祐五年より毎畝の税をその半分に止めることとし、汴梁路だけで22万余石が減った。泰定・天暦の初めに至り、虚増の数はすべて革められ、民はようやく安んじた。今その考うべき数を挙げれば以下の通り。
- 河南省:官民の荒熟田の総計118万769頃。
- 江西省:官民の荒熟田の総計47万4693頃。
- 江浙省:官民の荒熟田の総計99万5081頃。
農桑
- 農桑は王政の本である。太祖は朔方に起こり、その俗は蚕を待たずして衣し、耕さずして食する遊牧の生活であり、農桑に事を及ぼすことはなかった。世祖は即位の初め、まず「国は民を以て本となし、民は衣食を以て本となし、衣食は農桑を以て本となす」と天下に詔し、『農桑輯要』の書を民に頒って民に本を崇び末を抑えさせた。その睿見英識は古の帝王と異ならず、遼金の及ぶところではなかった。
- 中統元年、各路宣撫司に農事に通暁する者を選び随処勧農官に充てることを命ずる。二年、勧農司を立て陳邃・崔斌ら8人を使とする。至元七年、司農司を立て左丞張文謙を卿とする。司農司の設は専ら農桑・水利を掌り、勧農官および水利に詳しい者を分布し郡邑を巡行して勤惰を察挙させ、所在の牧民長官が農事を提点し、歳終にその成否を第して司農司・戸部に転申、秩満の日にはこれを解由に注記して戸部が照らし殿最とした。また提刑按察司にも体察を加えさせた。その法は至れりと言うべきである。この年また農桑の制十四条を頒ち(条文が多く尽くは載せられないが法とすべきものだけを挙げる)、県邑所属の村疃で凡そ50家ごとに一社を立て、年配で農事に通じた者を社長とし、100家を超えれば別に長1員を設け、50家に足りなければ近村と合して一社とする。地遠く人稀で合せられない処は各自社とすることを聴し、社を合わせられる場合は数村の中に社長を立てる。官司の長は農桑の督教を職とし、田を種える者は田側に牌橛を立て「集社某人」とその上に書き、社長が時に応じて点視・勧誡し、教えに従わない者は姓名を籍し提点官に渡してこれを責める。父兄を敬わない者や兇悪な者もまた同様に扱い、その門にその犯した所を大書し、改過自新するまでこれを毀さず、終歳改めなければ本社の夫役を代わりに罰する。社中に疾病・凶喪の家で耕種できない場合は衆で助け合い、一社の中で災病が多ければ両社が助ける。社長になった者はその身を復す(差役を免ずる)。郡県官は社長を科差の対象としてはならない。
- 農桑の術は旱暵に備えるのが先である。河渠の利は本処の正官1員が時に応じて浚治し、民力が足りない場合は提挙河渠官がその軽重を相し官がこれを導く。地が高く水が上らない所には水車を造らせ、貧しくて造れない者には官が材木を給し、秋成の後に使水の家からその直を均輸させる。田に水がない所は井を鑿り、井を深くしても水を得られない所は区田を種えることを聴す。水田がある場合は区種の必要はない。区田の法はそのまま農民の種植の制とする。丁ごとに毎歳桑棗20株を種え、土性に合わなければ楡柳等を種えその数も同様とする。雑果を種える場合は丁ごとに10株、いずれも生育を成すことをもって数とする。願って多く種える者はこれを聴す。地がなく疾がある者は与しない。所在官司の申報が不実な場合は罪する。また各社に苜蓿を布種させ饑年に備え、近水の家には池を鑿って魚を養い鵝鴨を飼い蓮藕・鶏頭・菱芡・蒲葦等を種えて衣食を助けることを許す。荒閒の地はすべて民に付し貧者から順に給する。毎年十月、州県正官1員に境内の蝗虫遺子の地を巡視させ多方これを除かせる。その用心の周到さはかくの如く、また仁と言えよう。
- 九年、勧農官に勤惰を挙察させ、高唐州の官は勤めにより陞秩、河南陝県尹王仔は惰りにより降職とし、以後毎歳その制を申明した。十年、テメチを随処に入社させ編民と同等とする。二十五年、行大司農司および営田司を江南に立てる。二十八年、農桑雑令を頒つ。この年また江南の長吏が勧課で民を擾すため親行の制を罷め、文を移してこれを諭すのみとする。二十九年、勧農司を各道粛政廉訪司に併入、僉事2員を増して兼ねて農事を察させる。この年八月にはまた提調農桑官の帳冊に差がある者を数に検して罰俸することを命ずる。かくて世祖の一代を通じ、家給人足、天下の戸は凡そ1163万3281、口は凡そ5365万4337を数え、これは敦本の明効と言うべきである。
- 成宗大徳元年、農を妨げる役を罷める。十一年、農を擾す禁を申べ、力田する者には賞を、遊惰の者には罰を与え、畜牧を放って禾稼桑棗を損なう者には償わせてから罪する。これにより大徳の治は至元にほぼ及んだが、旱暵・霖雨の災はしきりに現れ饑饉がたびたび起こり、流移して業を失う民もすでに多かった。武宗至大二年、淮西廉訪僉事苗好謙が種蒔の法を献ずる。その説では農民を三等に分け、上戸は地10畝、中戸は5畝、下戸は3畝あるいは1畝、みな垣牆で囲って時に応じ桑椹を採り法に依り種植させる。武宗はこれを善しとして行わせた。その法は『斉民要術』等の書に出るので詳しくは録さない。三年、大司農に天下の農政を総挈し勧課の令を修明することを申命、牧養の地を除きその余は民に秋耕を聴す。仁宗皇慶二年、また秋耕の令を申べる。ただし大都等五路のみはその半分の耕作を許す。秋耕の利は陽気を地中に掩い、蝗蝻の遺種を日に曝して死なせ、次年の種えるものが常禾より盛んになるからである。延祐三年、苗好謙の至るところ桑を植えて成効ある事によって諸道に風示し式とすることを命ずる。この年十一月、各社に地を出させ共に桑苗を蒔かせ社長にこれを領させ各社に分給する。四年、社桑の分給が不便なため民に各々畦種させる法に改める。法はしばしば変わったが有司はことごとく上意に遵うことができず、おおむね具文と見なされた。五年、大司農司臣は廉訪司が具える栽植の数を書いた冊は多くが不実だと言上、これを見ると勧課を惰る者は有司だけではなかったことがわかる。致和の後、農桑の令は申明されないことはなかった。天暦二年、各道廉訪司が察した勤官は内丘何主簿ら凡そ6人、惰官は濮陽裴県尹ら凡そ4人と、考うべきものはここに止まる。
税糧
- 元の民からの取り立ては、おおむね唐を法とした。内郡から取るのを丁税・地税といい、これは唐の租庸調に倣ったものである。江南から取るのを秋税・夏税といい、これは唐の両税に倣ったものである。
- 丁税・地税の法は太宗より行われた。初め太宗は戸ごとに粟2石を科し、後に兵食が不足したため4石に増やし、丙申年に至って科徴の法を定め、諸路に民戸の成丁の数を検して丁ごとに毎歳粟1石を科し、駆丁は5升とし、新戸の丁・駆はそれぞれ半分とし老幼は与らないとした。耕種する者があれば牛具の数あるいは土地の等を検してこれを徴した。丁税が少なく地税が多い者は地税を納め、地税が少なく丁税が多い者は丁税を納めた。工匠・僧道は地を検し、官吏・商賈は丁を検した。虚配して不実な者は杖70徒2年。毎歳その数を冊に書いて課税所より省に申報させ、違反者は杖100とした。
- 世祖に及んで旧制を申明し、輸納の期・収受の式・関防の禁・会計の法がすべて備わった。中統二年、遠倉の糧は沿河の近倉に輸納させ、石ごとに脚銭中統鈔3銭を帯収する。あるいは民戸が河倉に赴いて輸納する場合は石ごとに軽齎中統鈔7銭5分に折輸させた。五年、僧道・エルウルクンダシミ(原文のまま)・儒人の凡そ耕す者は白地は畝ごとに税3升、水地は畝ごとに5升とし、軍站戸は地4頃を免税しその余はすべて徴した。至元三年、窵戸(他郷に耕作する者)の丁税は附籍の郡で丁を検して科し、地税は種田の所で地を検して取ることとし、散戸で河南等路に逃れた者は見戸に依って税を納めさせた。八年、また西夏中興路・西寧州・烏梁海三処の税を定め、その数は前の僧道と同じくした。十七年、戸部に大定諸例をもって全科戸丁税は丁ごとに粟3石、駆丁は粟1石、地税は畝ごとに粟3升と定めさせ、減半科戸丁税は丁ごとに粟1石、新収交参戸は丁税を第1年5斗、第2年7斗5升、第3年1石2斗5升、第4年1石5斗、第5年1石7斗5升とし、第6年から丁税に入れる。協済戸丁税は丁ごとに粟1石、地税は畝ごとに粟3升とし、随路の近倉に粟を輸納し、遠倉は石ごとに軽齎鈔2両に折納する。富戸は遠倉に、下戸は近倉に輸し、郡県は各正官1員を差してこれを部す。石ごとに鼠耗3升・分例4升を帯納する。糧が倉に到れば時に応じて収受し朱鈔を出給する。権勢の徒で税石を結攬する者は罪し、その数を倍輸させる。倉官・攢典・斗脚人等が鈔を飛ばし幣を作す者はすべて法に置く。輸納の期は三限に分け、初限は十月、中限は十一月、末限は十二月とし、違反者は初犯は笞40、再犯は杖80とした。成宗大徳六年、税糧条例を申明し、また上都・河間の輸納の期を定め、上都は初限翌年五月・中限六月・末限七月、河間は初限九月・中限十月・末限十一月とした。
- 秋税・夏税の法は江南に行われた。初め世祖が宋を平定した時、江東・浙西を除きその余は秋税のみを徴した。至元十九年、姚元の請いにより江南の税糧を宋の旧例に依り綿絹雑物に折輸させることを命ずる。この年二月、また耿左丞の言により粟の三分の一を輸させ余は鈔に入れて折し、700万錠を率として歳に羨鈔14万錠を得ることとし、米を輸す者は宋の斗斛だけを用いた(宋の1石が今の7斗に当たるため)。二十八年、江淮の寺観田で宋よりあった旧田は租を免じ、続いて置かれた田は税を輸させることとし、その法もまた寛と言うべきである。成宗元貞二年、江南夏税の徴収の制を初めて定め、秋税は租のみを輸させ、夏税は木綿・布・絹・糸綿等の物を輸させることとし、その輸す数は糧を視てこれを差とした。糧1石につき鈔3貫・2貫・1貫あるいは1貫500文・1貫700文を輸すこととし、3貫を輸す例は江浙省婺州等路・江西省龍興等路、2貫を輸す例は福建省泉州等五路、1貫500文を輸す例は江浙省紹興路・福建省漳州等五路であり、いずれもその地理の宜と人民の衆を因って中数を酌んでこれを取った。折輸の物は各々時の估の高下に随ってその直とした。湖廣だけはこれと異なり、初めアルハヤが湖廣を克つ時、宋の夏税を罷め中原の例に依り門攤に改科し戸ごとに1貫2銭とし、夏税に比して鈔5万余錠を増した。大徳二年、宣慰張国紀が夏税を科すことを請い、湖湘は重ねてその害を被り、まもなく詔してこれを罷める。三年、また門攤を夏税に改めて併徴し、石ごとに計3貫4銭とし、江浙・江西より差が重いとされた。官田は民に佃種を許し租を輸させ、江北両淮等処の荒閒の地は第三年より輸させ、大徳四年また地が広く人が稀なため優って一年、第四年に納税させることとした。官田の夏税はすべて科さなかった。泰定の初め、いわゆる助役糧なるものが現れ、その法は江南の民戸で田1頃以上を有する者に所輸税の外に頃ごとに助役の田を量出させ冊に書いて里正が順次掌り、歳にその入を収めて充役の費に助けさせるもので、寺観田は宋の旧額を除きその余もまたその多寡を検して田を出させ役に助けさせた。民はこれによって困窮を免れたのでここに併せて記す。
- 天下の歳入糧数、総計1211万4708石。
- 腹裏227万1449石。
- 行省984万3255石(内訳:遼陽省7万2066石、河南省259万1269石、陜西省22万9023石、四川省11万6574石、甘粛省6万586石、雲南省27万7719石、江浙省449万4783石、江西省115万7448石、湖廣省84万3787石)。
- 江南三省天暦元年夏税鈔数、総計中統鈔14万9273錠33貫。
- 江浙省5万7830錠40貫、江西省5万2895錠11貫、湖廣省1万9378錠2貫。
科差
- 科差の名は二つあり、絲料と包銀という。その法は各戸の上下をそれぞれ検してこれを科す。
- 絲料の法は太宗丙申年より行われた。2戸ごとに絲1斤を出し随路の絲線・顔色とともに官に輸し、5戸ごとに絲1斤を出し随路の絲線・顔色とともに本位に輸した。
- 包銀の法は憲宗乙卯年に定まった。初め漢民は包銀6両を科納したが、これに至り4両に止め、2両は銀、2両は絲絹顔色等の物に折収した。
- 世祖に及んでその制はますます詳しくなった。中統元年、十路宣撫司を立て戸籍・科差の条例を定めたが、その戸は大抵一様ではなく、元管戸・交参戸・漏籍戸・協済戸があり、それら諸戸の中にはさらに絲銀全科戸・減半科戸・止納絲戸・止納鈔戸、そのほか攤絲戸・諸イスダイル所管の納絲戸・復業戸・漸成丁戸があり、戸ごとに等しくないため数も同じくなかった。
- 元管戸内絲銀全科係官戸:戸ごとに係官絲1斤6両4銭・包銀4両を輸す。
- 全科係官5戸絲戸:戸ごとに係官絲1斤・5戸絲6両4銭を輸す(包銀の数は係官戸と同じ)。
- 減半科戸:戸ごとに係官絲8両・5戸絲3両2銭・包銀2両を輸す。
- 止納係官絲戸:上都・隆興・西京等路は10戸で10斤の例で戸ごとに1斤、大都以南等路は10戸で14斤の例で戸ごとに1斤6両4銭を輸す。
- 止納係官5戸絲戸:戸ごとに係官絲1斤・5戸絲6両4銭を輸す。
- 交参戸内絲銀戸:戸ごとに係官絲1斤6両4銭・包銀4両を輸す。
- 漏籍戸内止納絲戸:戸ごとに輸す絲の数は交参絲銀戸と同じ。
- 止納鈔戸:初年は包銀1両5銭を科し、次年より5銭ずつ逓増して4両に至れば絲料を併科する。
- 協済戸内絲銀戸:戸ごとに係官絲10両2銭・包銀4両を輸す。
- 止納絲戸:戸ごとに輸す係官絲の数は絲銀戸と同じ。
- 攤絲銀:戸ごとに攤絲4斤を科す。
- 諸イスダイル所管戸:戸ごとに細絲を科しその数は攤絲と同じ。
- 復業戸・漸成丁戸:初年は科を免じ、第二年は半減、第三年は全科として旧戸と同等とする。
- 絲料・包銀のほかにさらに俸鈔の科があり、その法もまた戸の高下を等とし、全科戸は1両、減半戸は5銭を輸す。ここに全科の数をもって大門攤とし三限に分けて輸納させた。被災の地は他物に折輸することを聴し、その物は各々時の估を則とした。儒士および軍站・僧道等の戸はいずれも与らなかった。
- 二年、また科差の期を定め、絲料は八月を限り、包銀は初限八月・中限十月・末限十二月とした。三年、また絲料は七月を過ぎず、包銀は九月を過ぎないよう命じ、江南を平定するに及びその制はますます広がった。至元二十八年、至元新格をもって科差法を定め、諸差税はみな司県正官が監視し人吏が局を置いて均科し、諸夫役はみな先に富強、後に貧弱、貧富が等しければ先に多丁、後に少丁とした。成宗大徳六年、また止納絲戸は戸ごとに俸鈔中統鈔1両を科し、包銀戸は戸ごとに2銭5分を科し、攤絲戸は戸ごとに攤絲5斤8両を科すこと、絲料は八月、包銀・俸鈔は九月、布は十月を限とすることを命じた。おおむね世祖の旧に因ってこれを増損したものである。
科差総数
- 中統四年:絲71万2171斤、鈔5万6158錠。
- 至元二年:絲98万6912斤、包銀等鈔5万6874錠、布8万5412匹。
- 至元三年:絲105万3226斤、包銀等鈔5万9085錠。
- 至元四年:絲109万6489斤、鈔7万8126錠。
- 天暦元年:包銀差発鈔989錠、〈原文欠字:KR1437〉113万3119索、絲109万8843斤、絹35万530匹、綿7万2015斤、布21万1223匹。
海運
- 元は燕に都し、江南から極めて遠かったが、百司庶府の繁多と衛士編民の多さはすべて江南に仰いで給していた。丞相バヤンが海運の言を献じてより、江南の糧は春夏の二運に分けられ、京師に至る糧は多い歳には300万余石にも達した。民には輓輸の労がなく国には儲蓄の富があり、一代の良法と言うべきである。
- 初めバヤンが江南を平定した時、張瑄・朱清らに命じて宋の庫蔵図籍を崇明州から海道を経て京師に運び入れさせ、糧運は浙西から江に涉り淮に入り、黄河を逆流して中灤に至り、旱站陸運して淇門に至り御河に入れて京師に達していた。後に済州泗河を開き、淮から新開河を経て大清河に至り利津河から海に入る道としたが、海口が沙で壅がれたため東阿旱站から臨清まで運んで御河に入れる道に代え、また膠萊河道を開いて海に通じさせたが労費は多大で結局成果はなかった。至元十九年、バヤンは海道で宋の図籍を運んだことを追憶し、海運が行えると考え、朝廷に請いて上海総管羅璧・朱清・張瑄らに平底海船60艘を造らせ糧4万6千余石を海道より京師に運ばせた。しかし初めて海洋の航行を行い山沿いに好風を求めたため時を失い、翌年ようやく直沽に至った。当時朝廷はまだその利を知らなかった。この年十二月、京畿・江淮都漕運司二司をそれぞれ分司も置いて綱運を督させ、毎歳江淮漕運司に糧を中灤まで運ばせ、京畿漕運司が中灤から大都まで運ばせた。
- 二十年、また王積翁の議を用いてアバチらに新河を広く開かせたが、新河は潮を待って船を入れるため多く損壊し民もまた苦しんだ。一方でモンゴダイは海運の舟がすべて到着したと言上、そこで新開河を罷めもっぱら海運を行うこととし、万戸府2を立てて朱清を中万戸、張瑄を千戸、モンゴダイを万戸府達嚕噶齊とした。まもなく新河の軍士・水手および船を揚州・平灤の両処に分け糧を運ばせ、三省に命じて船2千艘を済州河に造り糧を運ばせたが、いまだもっぱら海道によるものではなかった。二十四年、初めて行泉府司を立てて専ら海運を掌らせ、万戸府2を増置して合わせて4府とし、この年、東平の河運糧を罷める。二十五年、内外に漕運司二司を分置し、外にあるものは河西務に司を置いて接運海道糧の事を領させた。二十八年、また朱清・張瑄の請いにより四府を都漕運万戸府二に併せ、清・瑄の二人だけに掌らせ、その属に千戸・百戸等の官があって各翼に分かれ歳運を督させた。
- 至大四年、官を江浙に遣わし海運の事を議した。当時江東・寧国・池・饒・建康等処の運糧はおおむね海船を洋子江から逆流して上らせていたが、江水は湍急で石磯・走沙も多く浅瀬に漲り、糧船はしばしば壊れ毎年これが起こっていた。また湖廣・江西の糧を真州まで運んで海船に泊め入れるが、船は大きく底が小さいため江中には適さなかった。そこで嘉興・松江の秋糧および江淮・江浙財賦府の歳辦糧を海漕に充てることとし、海漕の利はこの時に至って博まった。
- 凡そ運糧には石ごとに脚価鈔があり、至元二十一年は中統鈔8両5銭を給し、その後逓減して6両5銭に至った。至大三年、福建・浙東の船戸が平江に至って糧を載せる場合は道が遠く費えが多いため、至元鈔1両6銭に増やし香糯は1両7銭4分とした。四年、また2両、香糯は2両8銭、稲穀は1両4銭に増やした。延祐元年、遠近を斟酌してまたその価を増し、福建船が糙粳米を運ぶ場合は石ごとに13両、温台・慶元船が糙粳香糯を運ぶ場合は石ごとに10両5銭、紹興・浙西船は石ごとに11両(白粳の価も同じ)、稲穀は石ごとに8両、黒豆は石ごとに糙白糧の例に依って給した。
- 初め海運の道は平江の劉家港から海に入り、揚州路・通州・海門県・黄連沙頭・万里長灘を経て洋を沿って山伝いに行き、淮安路塩城県に抵り、西の海州・海寧府・東海県・密州膠州の界を歴て靈山洋に放って東北路に投じたが、浅沙が多く月余りを行ってようやく成山に抵った。その水程は上海から楊村馬頭まで計1万3350里であった。至元二十九年、朱清らはその路が険悪であることを言上し、また生道を開いて劉家港から洋に開き、撑脚沙を転じ沙觜に至り三沙洋子江に至って匾檐沙・大洪を過ぎ、また万里長灘を過ぎて大洋に放ち、青水洋に至り、また黒水洋を経て成山に至り劉島を過ぎて之罘・沙門の二島に至り莱州の大洋に放って界河口に抵る道とし、これは前の道よりやや径直であった。翌年、千戸殷明略はまた新道を開き、劉家港から海に入り崇明州三沙より洋に放ち、東行して黒水大洋に入り成山を取って西に転じ劉家島に至り、また登州の沙門島に至って莱州大洋に入って界河に至る道とした。舟行の風信が時にかなえば浙西から京師まで旬日を過ぎず、前二道に比べて最も便であった。しかし風濤は測りがたく糧船の漂溺は毎年止むことがなく、また船が壊れてその米を棄てる場合もあった。至元二十三年、初めて運官に賠償を責めることとしたが、人船ともに溺れた場合は免じた。しかし河漕の費に比べればその得る所は多かったと言うべきである。
歳運の数
- 至元二十年:4万6050石(至る者4万2172石)。二十一年:29万500石(至る者27万5610石)。二十二年:10万石(至る者9万771石)。二十三年:57万8520石(至る者43万3905石)。二十四年:30万石(至る者29万7546石)。二十五年:40万石(至る者39万7655石)。二十六年:93万5000石(至る者91万9943石)。二十七年:159万5000石(至る者151万3856石)。二十八年:152万7150石(至る者128万1615石)。二十九年:140万7400石(至る者136万1513石)。三十年:90万8000石(至る者88万7591石)。三十一年:51万4533石(至る者50万3534石)。
- 元貞元年:34万500石。二年:34万500石(至る者33万7026石)。
- 大徳元年:65万8300石(至る者64万8136石)。二年:74万2751石(至る者70万5954石)。三年:79万4500石。四年:79万5500石(至る者78万8918石)。五年:79万6528石(至る者76万9650石)。六年:138万3883石(至る者132万9148石)。七年:165万9491石(至る者162万8508石)。八年:167万2909石(至る者166万3313石)。九年:184万3003石(至る者179万5347石)。十年:180万8199石(至る者179万7078石)。十一年:166万5422石(至る者164万4679石)。
- 至大元年:124万148石(至る者120万2503石)。二年:246万4204石(至る者238万6300石)。三年:292万6532石(至る者171万6913石)。四年:287万3212石(至る者277万3266石)。
- 皇慶元年:208万3505石(至る者206万7672石)。二年:231万7228石(至る者215万8685石)。
- 延祐元年:240万3264石(至る者235万6606石)。二年:243万5685石(至る者242万2505石)。三年:245万8514石(至る者243万7741石)。四年:237万5345石(至る者236万8119石)。五年:255万3714石(至る者254万3611石)。六年:302万1585石(至る者298万6017石)。七年:326万4006石(至る者324万7928石)。
- 至治元年:326万9451石(至る者323万8765石)。二年:325万1140石(至る者324万6483石)。三年:281万1786石(至る者279万8613石)。
- 泰定元年:208万7231石(至る者207万7278石)。二年:267万1184石(至る者263万7051石)。三年:337万5784石(至る者335万1362石)。四年:315万2820石(至る者313万7532石)。
- 天暦元年:325万5220石(至る者321万5424石)。二年:352万2163石(至る者334万306石)。
鈔法
- 鈔は唐の飛銭・宋の交会・金の交鈔に始まる。その法は物を母とし鈔を子として子母相権じて行い、すなわち『周官』の質剤の意である。元の初めは唐宋金の法に倣い行用鈔があったが、その制は文籍に考うべきものがない。
- 世祖中統元年、初めて交鈔を造り絲を本とし、銀50両ごとに絲鈔1000両に易え、諸物の直はすべて絲の例に従った。この年十月、また中統元宝鈔を造る。その文は十を単位とするもの4種(10文・20文・30文・50文)、百を単位とするもの3種(100文・200文・500文)、貫を単位とするもの2種(1貫文・2貫文)で、1貫は交鈔1両に同じく、両貫は白銀1両に同じであった。また文綾を織って中統銀貨とし、その等は5種(1両・2両・3両・5両・10両)で1両は白銀1両に同じであったが、銀貨はついに行われなかったという。五年、各路に平準庫を設け物価を主平させ相依準じさせ低昂に至らせず、鈔1万2千錠を給して鈔本とした。
- 至元十二年、釐鈔を添造する。その例は3種(2文・3文・5文)。初め鈔の印は木を板としていたが、十三年に銅に鋳え、十五年には釐鈔が民に不便なため印造を罷めた。しかし元宝交鈔は行われて久しく物重く鈔軽くなったため、二十四年に至元鈔を改造し、2貫から5文まで凡そ11等とし中統鈔と通行させ、1貫文は中統鈔5貫文に当てた。中統の初めに依り随路に官庫を設けて貿易・金銀の平準・鈔法を行い、花銀1両を入庫すると至元鈔2貫を出庫し2貫5文、赤金1両を入庫すると20貫を出庫し20貫500文とした。鈔を偽造する者は死に処し、告発した者には鈔5錠を賞し犯人の家産をこれに給した。その法は最も善いものであった。至大二年、武宗はまた物重く鈔軽いことから至大銀鈔を改造し、2両から2釐まで13等とし、1両は至元鈔5貫・白銀1両・赤金1銭に準じた。元の鈔法はここに至って三変した。おおよそ至元鈔は中統の5倍、至大鈔はさらに至元の5倍であったが、期年を経ないうちに仁宗が即位し、倍数が多すぎ軽重が失宜であるとして銀鈔を罷める詔を下し、中統・至元の二鈔は元の一代を通じて常行された。
- 凡そ鈔の昏爛したものは、至元二年、官を交鈔庫に委ねて新鈔と倒換し工墨30文を除いた。三年に20文に減じ、二十二年にまた元に復した。貫伯が分明で微かに破損しているものはそのまま行用させ、違反者は罪とした。倒鈔は季ごとに各路が納課正官を派して省部に解送し焚毀させた。行省に隷する場合はその場で焚いた。大徳二年、戸部は昏鈔を25様に定め、泰定四年にはまた焚毀の所を定め、廉訪司官が監臨し、行省に隷する場合は行省官が同じく監督した。その制のあらましはこの通りである。
- 銭については、九府圜法が周に行われて以来、歴代いまだかつて廃されたことはなかったが、元の交鈔・宝鈔はいずれも銭を文としながら銭は鋳造されなかった。武宗至大三年、初めて銭法を行い資国院・泉貨監を立ててこれを領させ、その銭は「至大通宝」(1文は至大銀鈔1釐に準ずる)、「大元通宝」(1文は至大通宝銭10文に準ずる)と称し、歴代の銅銭もすべて古例に依り至大銭と通用させ、その当五・当三・折二もすべて旧数によって用いた。翌年、仁宗は鼓鋳が新旧の資用に給せずその弊がますます甚だしいとしてまた詔し、銀鈔とともにすべて廃止し立てられた院監もみな罷革し、もっぱら至元・中統鈔を用いることとした。
歳印鈔数
- 中統元年:中統鈔7万3352錠。二年:3万9139錠。三年:8万錠。四年:7万4000錠。
- 至元元年:中統鈔8万9208錠。二年:11万6208錠。三年:7万7252錠。四年:10万9488錠。五年:2万9880錠。六年:2万2896錠。七年:9万6768錠。八年:4万7000錠。九年:8万6256錠。十年:11万192錠。十一年:24万7440錠。十二年:39万8194錠。十三年:141万9665錠。十四年:102万1645錠。十五年:102万3400錠。十六年:78万8320錠。十七年:113万5800錠。十八年:109万4800錠。十九年:96万9444錠。二十年:61万620錠。二十一年:62万9904錠。二十二年:204万3080錠。二十三年:218万1600錠。二十四年:中統鈔8万3200錠、至元鈔100万1017錠。二十五年:至元鈔92万1612錠。二十六年:178万93錠。二十七年:50万250錠。二十八年:50万錠。二十九年:50万錠。三十年:26万錠。三十一年:19万3706錠。
- 元貞元年:至元鈔21万錠。二年:40万錠。
- 大徳元年:至元鈔40万錠。二年:29万9910錠。三年:90万75錠。四年:60万錠。五年:50万錠。六年:200万錠。七年:150万錠。八年:50万錠。九年:50万錠。十年:100万錠。十一年:100万錠。
- 至大元年:至元鈔100万錠。二年:100万錠。三年:至大銀鈔145万368錠。四年:至元鈔215万錠、中統鈔15万錠。
- 皇慶元年:至元鈔222万2336錠、中統鈔10万錠。二年:至元鈔200万錠、中統鈔20万錠。
- 延祐元年:至元鈔200万錠、中統鈔10万錠。二年:至元鈔100万錠、中統鈔10万錠。三年:至元鈔40万錠、中統鈔10万錠。四年:至元鈔48万錠、中統鈔10万錠。五年:至元鈔40万錠、中統鈔10万錠。六年:至元鈔148万錠、中統鈔10万錠。七年:至元鈔148万錠、中統鈔10万錠。
- 至治元年:至元鈔100万錠、中統鈔5万錠。二年:至元鈔80万錠、中統鈔5万錠。三年:至元鈔70万錠、中統鈔5万錠。
- 泰定元年:至元鈔60万錠、中統鈔15万錠。二年:至元鈔40万錠、中統鈔10万錠。三年:至元鈔40万錠、中統鈔10万錠。四年:至元鈔40万錠、中統鈔10万錠。
- 天暦元年:至元鈔31万920錠、中統鈔3万500錠。二年:至元鈔119万2000錠、中統鈔4万錠。