至正親祀南郊
- 至正3年(1343年)10月17日、順帝は昊天上帝を圜丘で親祀し、太祖皇帝を配享とすることを旧儀のままとした。右丞相トクト(托克托)が亜献官、太尉樞密知院アルト(阿嚕圖)が終献官、御史大夫バジャル(巴咱爾)が摂司徒、樞密知院ワンギャヌ(旺嘉努)が大礼使、中書平章エセンテムル(額森特穆爾)・特穆爾達實(テムルダシ)の2人が侍中、御史大夫エセンテムル・中書右丞太平の2人が門下侍郎、宣徽使ダシテムル(達實特穆爾)・太常同知李好文の2人が礼儀使、宣徽院使エセンテムルが劈正斧を執ることとされ、その他の侍祀官も等第に従って定めた。前期8月7日、太常礼儀院が関を礼部に移し都省に呈し、翰林・集賢・礼部等の官を会集させ典礼を講究させた。9月内、承奉班都知孫玉鉉が親祀南郊の儀注を具録した。
- 儀注の要旨:致齋日は刑殺文字の奏を停める。享る執事官は中書省で誓を受ける。享前1日質明、法駕・儀仗を備え、皇帝が致齋殿を出て輿に乗り大明殿に至り即位、執事官が起居する。皇帝が輿に乗って大明門外に至り馬に乗る。門下侍郎の奏請により車駕が進発し警蹕を称して崇天門外に至り、百官が上馬する。教坊の楽鼓吹は郊壇に至るまで作らない。壇の南櫺星門外で皇帝は馬を降り、輿に乗って内櫺星門より右偏門から入り、大次殿に至り輿を降りて大次に入る。宿衛が儀の通りに整い、百官は各自の齋次に退く。尚食が膳を進めた後、礼儀使が祝冊を奉り皇帝が署して郊祀令に渡す。享日丑時2刻、皇帝が服(衮冕)を整え「外辦」の奏を受けて大次を出て西壝門に至り、儀仗・導駕官はここで止まり、近侍官・代礼官のみが従って殿中に入る。中書監(殿中監)が大圭を進め、礼儀使が請うて皇帝が大圭を執り、行禮する(礼節は旧制の通り)。礼が終わると大次に還り、解厳・釈衮冕。尚食が再び膳を進める。その後、法駕・儀仗を備え、百官が郊南櫺星門外に整列。皇帝が輿に乗り、太僕卿が進めた御馬に乗って車駕が進発、警蹕を称して麗正門裏石橋北に至り教坊の楽鼓吹が作られる。百官が下馬し崇天門より入り大明門外で皇帝が馬を降り輿に乗り、大明殿に至って即位、解厳し百官が退く。これで郊祀の礼が成る。
至正親祀太廟
- 至元6年(1340年)6月、監察御史が上奏した。「かつて聞く『五行伝』に、宗廟を簡略にし祭祀を廃すれば水が潤下しないという。近年雨澤が期に愆り四方に旱多く、歳ごとに祀事を減じ成憲を変更するのはこれに感応するのではないか。国家が四海乂安し百余年、列聖相承け典礼具備し孝を以て天下を治めぬはない。世祖皇帝が新都城で太廟を首建したのはまさに本を知るものである。春秋の法では国君の即位・逾年改元には必ず告廟の礼を行う。陛下即位以来7年、未だ躬ら太廟に詣でられたことがなく闕典と思われる。今、政化を更新するにあたり旧制に遵い、告廟の典は親祀するのが理に適う」。当時帝は上都におり、台臣がこれを奏聞、旨を奉じて「大都に到り次第親祭せよ」とされた。9月27日、中書省が10月4日に皇帝が太廟を親祀することを奏し、制可された。前期、太師右丞相メルゲンタイ(満済勒噶台)を亜献官、樞密知院アルト(阿嚕圖)を終献官、知院プルプ(普爾普)・翰林承旨婁章を助奠官、大司農アヤガチ(阿雅噶齊)を七祀献官、侍中2人・門下侍郎2人・大礼使1人・執劈正斧1人・礼儀使4人、その他は故事の通りとした。
- 儀注の要旨:享前1日質明、法駕を崇天門外に備え、侍儀官・導駕官が公服で致齋殿前に整列。皇帝が致齋殿を出て正門より大明殿に至り即位、執事官が起居する。皇帝が輿に乗り大明門外で馬に乗り、車駕が進発し警蹕を称して崇天門外で百官が上馬。太廟外紅門内で百官が下馬。石橋南で皇帝は下馬し神門より歩いて入り、稍西で輿に乗り大次殿門前で輿を降りて大次に入る。宿衛が整い、百官は齋次に退く。行禮の刻(丑時2刻)、皇帝が服(衮冕)を整え西神門に至り行禮(近侍・儀仗は西神門で止まる)。礼が終わると大次に還り解厳・釈衮冕。尚食が膳を進めた後、皇帝が大次を出て輿・馬を乗り継ぎ、警蹕を称して神門外・櫺星門外を経て麗正門裏石橋北で百官が下馬。教坊の楽が振作される。紅門裏の輦路から大明門外に至り皇帝が輿に乗り、大明殿に至り即位、解厳して百官が退く。
三皇廟祭祀禮樂
- 至正9年(1349年)、御史台が江西湖東道粛政廉訪使文殊訥の言を中書に呈した。その言によれば、「三皇は天を開き極を立て功は万世に及ぶ。京師では毎歳春秋の祀事を太医官に主祭させているが礼として揆るに相応しくない。国子学の宣聖廟の春秋釋奠に倣い、上より中書省臣を遣わして代祀し、一切の儀礼をその制に倣うべきである」という。中書は礼部に付し礼官を集めて議させた。同年10月24日、平章政事タイハブハ(台哈布哈)・鼎珠等がこれを奏聞、制可された。太常に儀式を定めさせ、工部に祭器を作らせ、江浙行省に雅楽器を製せしめ、太常博士に楽曲の名を定めさせ、翰林国史院に楽章16曲を撰せしめた。翌年、祭器・楽器が備わり、医籍148戸を廟戸に充て、礼楽生とし、御薬院大使盧亨が音律に習熟していたため楽工42人を教える任を受け、それぞれの技を執る。季秋9月9日に事を行うこととし、宣徽が礼饌を供し、光禄勲が内醖を供し、太府が金帛を供し、広源庫が薌炬を供し、大興府尹が犠牲・制幣・粢盛・肴核を供する。中書が三献官を奏擬し、以下諸執事を清望の者で定める。前1日、内より御香を降し、三献官以下が公服・大楽・儀仗で香を迎え開天殿に安置し、退いて習礼する。翌日祭儀を習い終え、廟に就いて齋宿する。京朝文武百司及び与祭官も同様にそれぞれ礼を以て助祭する。翰林詞臣が祝文を作り「皇帝敬遣某官某致祭」とする。
楽章(前巻の社稷を祀る楽章はみな礼楽類にあるが、今ここに附する)
- 降神・咸成之曲(黄鍾宮三成):三聖(伏羲・神農・黄帝)の神なる化に極まりなく、天を継ぎ極を立て百王に憲を垂れたことを頌え、明祀を崇め旧章に率い、霊が降臨して光を放つことを願う。
- 降神・賔成之曲(大呂角二成):帝の徳が人にあり日用にして知られずとも、神は天にあって至誠を以て思うべしとし、良辰吉日に儀を整えて誠を尽くし、これを享けることを願う。
- 降神・顧成之曲(太蔟徴二成):大道の行われるは古先より肇まり、その功烈が千万年に及ぶことを尊び、事に執えることを慎み、神が沛然として風のように来ることを頌える。
- 降神・臨成之曲(応鍾羽二成):雅楽が奏でられ礼が成ると神が降格し、位に安んじて清廟に奕々たり、その霊が潜かに通じ豊かに輝き、百世に飽きることなくこれを承け継ぐことを頌える。
- 初獻盥洗・蠲成之曲(姑洗宮):霊が来り止まり燕して安んじ、吉く蠲めて享を致し寅み清らかにすることを述べ、水を挹み盥いで升殿し、神明に交わることを願う。
- 初獻升殿・恭成之曲(南呂宮):斉明に服を盛んにし恭しく祀を命じ、神は洋洋として上にあり遠からず近くにありとし、左右に周旋し庭を陟降することを述べ、多くの福を介けることを願う。
- 奠幣・祗成之曲(南呂宮):駿奔として列に在り品物咸く備わり、礼厳かに幣を陳ねることを述べ、篚の実を将って誠意を捧げ、霊が留まり熙事を成すことを願う。
- 初獻降殿(升殿と同じ)
- 捧俎・(闕)成之曲(姑洗宮):牲は滌に在り既に全く且つ潔く、俎を為すこと孔だ碩なることを述べ、以て将め以て享じ、その儀忒わず、神がこれを迪嘗し純嘏を錫うことを願う。
- 初獻盥洗(前と同じ)
- 初獻升殿(前と同じ)
- 太皥伏羲氏位酌獻・(闕)成之曲(南呂宮):五徳の首として巍巍たる聖神、八卦を作り我が人(民)を誕開したことを頌え、物としてその功に称うものなく玄酒を尊に在らしめ、徳を親しむことを願う。
- 炎帝神農氏位酌獻・(闕)成之曲(南呂宮):耒耜の利、人はこれに頼りて生き鼓腹含哺す、帝の力は名づけ難いとし、その徳に報いんとするも黍稷は馨しからずとし、至誠を以て享けることを願う。
- 黄帝有熊氏位酌獻・(闕)成之曲(南呂宮):衣裳を為し乾坤に法り効い、三辰順序し万国来賓す、典祀に常あり多儀且つ陳ねられ、純精鬯達し文を藉らずとも通じることを頌える。
- 配位酌獻・(闕)成之曲(南呂宮):三聖が儼として臨むに孰かその食を侑めん、爾のみ神ありて功徳を同じくすとし、霊休を丕く擁して嘉席に娯しみ、世々昭配し永く極まりなきことを願う。
- 初獻降殿(前と同じ)
- 亜献・(闕)成之曲(終獻同じ)(姑洗宮):緩節に安歌し貳觴を升せ、礼は三たび終わり令き芳を申薦す、百職ある者は敢えて怠遑せず、神は具に酔い欣欣として楽しみ康らかなることを述べる。
- 徹豆・(闕)成之曲(南呂宮):籩豆践列し殷薦は時に亶く、礼文疏洽し廃徹遅からずとし、終わりを慎むこと始めの如く進退違うことなく、神が我らを祚け繁釐を以て綏んじることを願う。
- 送神・(闕)成之曲(黄鍾宮):夜如何ぞ其れ明星煌煌たり、霊は逝きて留まらず飈のように挙がり雲のように翔る、瞻望すれども及ばず徳音を忘れずとし、景貺を回らせ禎祥を発することを願う。
- 望瘞・(闕)成之曲(姑洗宮):工祝が告を致し礼は備わり楽は終わる、牲を加え幣を兼ね薶め訖えていよいよ恭しくすとし、精神は罄き恵沢は窮まりなく、休を儲え美を錫い万福が来り崇まることを願う。
顔子考妣封謚
- 至順元年(1330年)冬11月、曲阜の兖国復聖公(顔子)の新廟が落成した。元統2年(1334年)、顔子の考(父)曲阜侯を杞国公に改封し謚を文裕、妣(母)斉姜氏を杞国夫人とし謚を端献夫人、戴氏(顔子の妻)を兖国夫人とし謚を貞素とした。また益都・鄒県の牧地30頃を割いて歳入を常祀に充てさせた。
宋五賢從祀
- 至正19年(1359年)11月、江浙行省が杭州路の申状を据え、本路の経歴司が呈じた提控案牘兼照磨承発架閣胡瑜の牒による。その言によれば、「文治興隆は曠典を挙行するに宜しく、儒先を褒美するのは将来を激励するためである。国家が民を化し俗を成すには学校に先んじるものなく、学校の設立は必ず先聖先師の祀を崇め功に報い勧めを示すためである。我が朝が儒を崇め道を重んじる意は前古を度越し、既に先聖大成の号を加え、更に宋儒周敦頤等に封爵を追崇して従祀させ、報功示勧の道はまことに至れりというべきである。しかし有司の討論が未だ尽くさず、先儒楊時等5人が従祀に列していない。これは盛明の世になお闕典があることになる。宋の龍図閣直学士・謚文靖の亀山先生楊時は程門の道統の伝を親しく得て王氏経義の謬りを排し、南渡後の朱・張・呂氏の学の源委脈絡はみな彼から出た。宋の処士延平先生李侗は河洛の学を伝えて朱熹に授け、集注に引く『師説』はその講論の旨である。宋の中書舎人・謚文定の胡安国は伊洛の道を聞き志を春秋に置き『集伝』を纂して正経を羽翼し天理を明らかにして世教を扶け、聖人の門に功があった。宋の処士・贈太師栄国公・謚文正の九峰先生蔡沈は朱子に従学しその指授を親しく承け『書集伝』を著して先儒の未だ及ばぬ所を発明し聖経に深く功があった。宋の翰林学士・参知政事・謚文忠の西山先生真徳秀は博学窮経し実践に篤く、当時偽学の禁が善類を錮していたとき晩に出でて独り斯文を己が任とし講習躬行し党禁が解かれて正学が明らかになった。この5人は学問が道統の伝を接ぎ著述は儒先の秘を発する、その功は甚だ大きい。況や科挙取士に既に胡安国『春秋』・蔡沈『尚書集伝』を表章して用い、真徳秀『大学衍義』も経筵講読に備えられている。これらはみな国家の治道に補いがあるものである。各人の出処は『宋史』本伝に詳しく、みな追って名爵を錫い先聖廟廷に従祀し、儒風を敦厚にし後学を激勧すべきである」。本省はこの言を中書省に咨り、胡瑜を都に遣わして投呈させた。至正21年(1361年)7月、中書が礼部に判送し、翰林・集賢・太常の三院に会議させ、みな言う所を准として中書省に回呈、22年(1362年)8月、奏准して礼部に送り5先生の封爵謚号を定擬した。みな太師を贈り、楊時を呉国公、李侗を越国公、胡安国を楚国公、蔡沈を建国公、真徳秀を福国公に追封し、それぞれ詞頭・宣命を給し官を遣わして福建行省に赴かせ各人の子孫を訪ねて給付し、子孫のない場合は故郷の鄉里・郡県学または書院・祠堂内に安置することとした。
朱熹加封齊國父追謚獻靖
- 至正22年(1362年)12月、朱熹の父を追謚して献靖とした。制詞は次のように述べる。「徳を考えて時を論じ風儀の俊なるを灼かに見る。子を観てその父を知り、詩礼の伝を聞くに久しく幽堂に閟じ公論に昭らかならず。宋の左承議郎・守尚書吏部員外郎・兼史館校勘・累贈通議大夫の朱松は仕を躁進せず徳は中行に合し、鄒魯の淵源を溯って来学を開き、図書の蘊奥を開いて玄機に妙契す。奏対は権姦に忤らうも嗣続は篤く賢哲を生み、化民成俗し著書は家に満ち、既に志を継ぎ事を述べる光を前に、何ぞ節に易名の孔に後れんや。才高くして展べられず下僚に沈滞したことを嗟くも、道大にして容れられず竟に永世に昌明す。神霊は昧からず休命はこれを承くべし。謚を献靖とすべし」。朱熹を斉国公に改封する制詞は次のように述べる。「聖賢の蘊は諸経義理に載り実は先正に明らかなり。風節の厲は諸世に垂れ褒崇は異時を間わず。鉅儒に非ずんば孰か寵数に膺わん。宋の華文閣待制・累贈宝謨閣直学士・太師・追封徽国公・謚文の朱熹は異質を挺生し早く科名に擢んで郡県に試用され善政孔だ多く、館閣に迴翔して直言隠すことなく、権姦に屡々挫かれても志慮は回らず、著書立言し簡編の富を嘉とし、君を愛し国を憂え経済の長を負い、正学は久しく中原に達し渙号は仁廟に申行された。僉議に詢るに宜しく故封を易えるべしとし国は営丘を啓き太公の境土に錫を、隣は洙泗に境し尼父の宮牆を観るべしとし、英風を緬想し新命を載欽す。追って斉国公に封ずべし。餘は並びに故の如し」。
國俗舊禮
- 毎歳太廟四祭には司礼監官1員(名を蒙古巫祝という)を用い、省牲の時には法服を着け三献官と共に殿に升り室戸に詣で腯を告げ、牲所に還って国語(モンゴル語)で歴代帝后の名諱を呼びこれを告げる。翌朝三献の礼が畢わると献官・御史・太常卿・博士が再び殿に升り各室に分かれ詣で、蒙古の博囉齊(ボロチ)が跪いて牲を割き、太僕卿が朱漆盂で馬乳を奉じ酌奠する。巫祝が国語で神に告げ終わると太祝が祝幣を奉じ燎位に詣で、献官以下が版位に還り再拝して礼が畢わる。
- 毎歳、駕が上都に幸するに8月24日祭祀があり「灑馬妳子(馬乳をそそぐ)」という。馬1・羯羊8・綵段練絹各9匹・白羊毛を纏ねて穂の如くしたもの9・貂鼠皮3を用い、蒙古巫覡及び蒙古漢人秀才の達官4員に命じその事を領させ、再拝して天を告げ、さらに太祖チンギス(青吉斯)の御名を呼んで祝う。「托天皇帝(天に托す皇帝)の福蔭により年々祭を賽(むく)いん」。礼が畢わると掌祭官4員がそれぞれ祭幣表裏1を与えられ、残りの幣及び祭物は与祭者が共に分ける。
- 毎歳9月内及び12月16日以後、燒飯院中で馬1・羊3・馬湩酒醴・紅織金幣及び裏絹各3匹を用い、蒙古の達官1員に蒙古巫覡と共に地を掘り坎を為し肉を燎かせ、さらに酒醴・馬湩を雑せて焼く。巫覡が国語で歴代御名を呼んで祭る。
- 毎歳12月下旬、日を択び西鎮国寺内の牆下で平地を灑掃し、太府が綵幣を兼供し、中尚監が細氈・鍼線を供し、武備寺が弓箭・環刀を供し、稈草で人形1と狗1を束ね、雑色の綵段を剪って腸胃とし、達官・世家の貴重な者を選んで交射させる(非伯蘇扎拉爾・柰曼・孟古岱拉・拜塔坦・沙卜珠蘇尼特等の氏族はこの列に与れない)。糜爛するまで射た後、羊酒でこれを祭る。祭が畢わると帝后及び太子・嬪妃・射者はそれぞれ服した衣を解き、蒙古巫覡に祝讃させ、祝讃が畢わるとこれを射者に与える。名づけて「脱災」といい、国俗ではこれを「射草狗」という。
- 毎歳12月16日以後、日を選び白黒の羊毛で線を作り、帝后及び太子は頂から手足まで羊毛線で纏繋し寝殿に坐す。蒙古巫覡が呪語を念じ、銀槽に火を貯え中に米糠を置き酥油を沃ぎ、その煙で帝の身を薫じ繋いだ毛線を断って槽内に納める。また紅帛数寸を帝が手で裂き砕き3度唾する。これを火中に投じ、服した衣帽を解いて巫覡に付す。これを「脱旧災迎新福」という。
- 凡そ后妃が妊身して月辰に及ぼうとするとき、外の氈帳房に移り住む。皇子孫が生まれれば百官に金銀綵段を賜い、これを「色伯特」という。満月に及べば内寝に還り、その帳房は近臣に頒賜する。
- 凡そ帝后が疾を得て危殆に及び治癒の見込みがなければ、同じく外の氈帳房に移り住む。不諱(崩御)となればその中に殯殮し、葬後は毎日羊2で焼飯し祭とし、49日に至って止む。その帳房もまた近臣に賜う。
- 凡そ宮車晏駕(皇帝崩御)すれば、棺は香楠木を用い中分して2つとし人形にくり抜く。その広狭長短は身を容れるに足るのみ。殮には貂皮襖・皮帽を用い、靴韈・繫腰・盒鉢はみな白粉皮で作る。金壺瓶2・盞1・椀楪匙筯各1を殉える。殮が終われば黄金の箍4条で束ね、輿車は白氈青縁の納奇実(金錦)で簾を作り棺を覆うのも納奇実を用いる。前行には蒙古巫媪1人が新衣を着け馬に乗り馬を牽く、その馬1匹は黄金で鞍轡を飾り納奇実で籠う。これを「金霊馬」といい、日3次羊を用いて奠祭する。葬る陵地に至ると穴を開けて起こした土を塊にして次第に排列し、棺を下ろした後は次第にこれを覆い掩う。余った土は遠くの他所に置く。送葬官3員が5里外に居て日1次焼飯致祭し、3年してから返る。
- 世祖至元7年(1270年)、帝師パクパ(帕克斯巴)の言により、大明殿の御座上に白繖蓋1頂を置き、素段に泥金で梵字を書き、邪魔を鎮伏し国刹を安護すると言う。これより毎歳2月15日に大殿で白繖蓋の仏事を啓建し、諸色の儀仗・社直に繖蓋を迎引させ皇城の内外を周遊させる。これは衆生のために不祥を祓除し福祉を導迎する意という。歳正月15日、宣政院が中書省と同じくこれを奏請し、先期に中書が旨を奉じて樞密院に文を移し、8衛から撥繖鼓手120人、殿後軍甲馬500人、監壇漢関侯の神轎を担ぐ軍及び雑用500人を撥する。宣政院所轄の宮寺360所が仏像・壇面・幢幡・宝蓋・車鼓頭旗を供応し、360壇ごとに擎執擡舁26人、鈸鼓僧12人。大都路が各色の金門大社120隊を供応。教坊司の雲和署が大楽・鼓板・杖鼓・篳篥・龍笛・琵琶・箏など7色計400人を掌る。興和署が妓女雑扮隊戯150人を、祥和署が雑把戯男女150人を掌る。儀鳳司が漢人・回回・河西の3色の細楽(各色3隊、計324人)を掌る。凡そ役に執わる者はみな官が鎧甲・袍服・器仗を給し、いずれも鮮麗整斉を尚び、珠玉金繍で装束は奇巧、首尾30余里に排列する。都城の士女・閭閻がこれを聚観し、礼部官が諸色の隊仗を点視、刑部官が喧鬧を巡綽し、樞密院官が城門を分守、中書省官1員が総督視察する。先2日、西鎮国寺で太子(弥勒)を迎え四門を遊行、髙く塑像を舁いて儀仗を具え入城させる。14日、帝師が梵僧500人を率い大明殿内で仏事を建てる。15日、恭しく繖蓋を御座から請い宝輿に奉置し、諸儀衛隊仗を殿前に列ね、諸色社直・諸壇面を崇天門外に列ね迎引して宮を出て慶寿寺に至り素食を具え、食し終えて起行し西宮門外垣・海子南岸から厚載紅門に入り東華門を経て延春門を過ぎ西に向かう。帝及び后妃・公主は玉徳殿門外に金脊五殿の綵楼を搭て観覧する。諸隊仗・社直が金繖を送って宮に還し、御榻の上に恭しく置き、帝師僧衆が仏事を作す。16日に至って罷散する。歳々常となし「遊皇城」という。事あって輟むこともあるが尋いで復た挙行する。夏6月、上京(上都)でもまた同様に行う。