太社太稷
- 至元7年(1270年)12月、詔により毎年太社・太稷を祀ることとした。至元30年(1293年)正月、御史中丞崔彧の建議により、和義門内の少し南、地40畝を得て壇を築いた。
- 壇域の構造は次の通り。壝垣(囲い塀)の内、南寄りに二壇(社壇・稷壇)を築く。壇の高さ5尺、方広は高さの10倍。社は東、稷は西に置き、約5丈離す。社壇の土は青・赤・白・黒の四色を方位に従って築き、中央は常土を実て上を黄土で覆う。五色の泥で飾り、四面中央にそれぞれ陛道(幅1丈)を設け、方位色に合わせる。稷壇も社壇と同じ制だが、五色を使わず上部は黄土一色とする。両壇はいずれも北向きに立て、北墉(塀)を社壇の北に磚で築き黄泥で飾る。瘞坎(埋納穴)2つを稷壇の北やや西に、物を容れられる深さで設ける。二壇の周囲の壝垣は磚造り、高さ5尺、周囲30丈、四隅を連結し、内壝には四所、外壝には二所の櫺星門を設け、各門に戟24を列ねる。
- 外壝内北垣下に屋7間(望祀堂、風雨に備え両壇を望拝する場)。堂の東に屋5間と連なる廈3間(齊班廳)。その南西向きに屋8間(獻官幕)。さらに南に屋3間(院官齋所)。その南に屋10間、北から南へ祠祭局・儀鸞庫・法物庫・都監庫・雅樂庫と続く。さらに南、北向きの屋3間(百官厨)。外垣南門西の壝垣西南向きに屋3間(大樂署)、その西東向きに屋3間(樂工房)。その北に北向き屋1間(饌幕殿)、さらに北に南向き屋3間(饌幕)。さらに北やや東に南向きの門1間。院内南に南向き屋3間(神厨)、東向き屋3間(酒庫)、近北やや東の東向き屋3間(犧牲房)に井戸と亭がある。望祀堂の後ろ、西から東へ南向き屋9間(執事齋郎房)、北から南へ西向き屋9間(監祭執事房)。これらが壇壝に付属する諸施設である。
- 社の主(神体石)は白石製、長5尺広2尺、上部を鐘形に削り、社壇の近南に北向きに埋め、半ばを土中に埋める。稷には主を用いず、后土氏を社に、后稷氏を稷に配祀する。神位版は栗材の白木に黒字で書く。社樹には松を植え、社稷二壇の南にそれぞれ1株植える。これが主・樹木の法である。
- 祝版4枚は楸木製、長2尺4寸・広1尺2寸・厚1分。文言は「維年月日、嗣天子敬遣某官某、敢昭告于太社之神」(配位は后土之神)、「太稷之神」(配位は后稷之神)とする。
- 玉幣は社稷とも黝圭1、繅藉(玉を包む敷物)を副える。瘞玉1は黝石で代える。𤣥幣1、配位もそれぞれ𤣥幣1(各長1丈8尺)。これが祝文・玉幣の式である。
- 牲は牛1(黝色、角は握るほどの大きさで副えあり)、羊4、野豕4。籩の実は10種(糗餌粉餈を除く)、豆の実も10種(&KR1246;食糝食を除く)、簠簋の実は各4、鉶の実は羮5種で、いずれも尚醖(宮中造りの酒)で齊酒に代える。香は沉香・龍涎香を用いる。神席は黒綾縁の褥(方7尺4寸)。
- 尊罍類:太尊・著尊・犧尊・山罍各2(坫・勺・羃付き)、象尊・壺尊・山罍各2(坫・羃付きだが酌まない)。籩豆各11(うち1は饌幕に置く)、鉶3・簠3・簋3(うち1は饌幕)、俎8(うち2は饌幕)、盤1、毛血豆1、爵1(坫付き)、沙池1、玉幣篚1、木柶1、勺1、香鼎1、香盒1、香案1、祝案1(いずれも衣付き)、紅髹器1(馬湩を盛る)、盥洗位2、罍2、洗2、白羅巾4(篚に納める)、朱漆盤5。以上は社稷とも同じ。配位には象尊があるが太尊はなく、酌まない設備には象尊がない。他はすべて正位と同じ。これが牲・齊酒・祭器の等級である。
- 饌幕・省饌殿・香殿に黄羅幕3、黄羅額4、黄絹帷195幅。獻攝の版位35。紫綾拜褥100、蒲葦席各200。木燈籠40、絳羅燈衣110、紅挑燈10、剪燭刀2、鐵籸盆30(架付き)、黄燭200、雑用燭200、麻籸300、松明・清油各100斤。これが饌幕・版位・燭燎の用である。
- 執事官:初獻官1、亞獻官1、終獻官1、攝司徒1、助奠官2、太常卿1、光禄卿1、廪犧令1、太官令1、巾篚官4、祝史4、監祭御史2、監禮博士2、司天監2、良醖令1、奉爵官1、司尊罍2、盥洗官2、爵洗官2、太社令1、太社丞1、大樂令1、大樂丞1、協律郎2、奉禮郎2、讀祝官1、舉祝官2、奉幣官4、剪燭官2、太祝7、齋郎48、贊者1、禮直官3(祭に与る官は定員なし)。これが獻攝執事の人数である。
- 祭日は春秋二仲月の上戊(延祐6年〈1319年〉より中戊に改める)。儀注の節は六つある。
- 迎香:前日、有司が坊市に告知し道を清掃し香案を設ける。当日未明、三獻官以下の執事官が公服(五品以下・齋郎らは借紫)を具えて崇天門に詣で、祝・御香・尊酒・馬湩を宮中より出し、監祭御史・監禮博士・奉禮郎・太祝が左右に分かれて先導、控鶴5人(うち1人繖を執り4人儀仗を執る)が大明門正門より出て教坊の大樂が奏され、崇天門外で香・酒・馬湩を輿に安置し、儀仗を整えて紅門外に至る。百官は馬に乗り儀仗の外に整列、清道官・兵馬司巡兵・金鼓・京尹儀従・教坊大樂・控鶴弩手・拱衞使・儀鳳司細樂が順に並ぶ。太常卿・博士・御史が輿の前を先導し、獻官・司徒・助奠官が輿の後に従う(上都行幸時は健徳門外で公服のまま迎える)。社稷壇北の神門外で下馬し、左右に分かれ北門より入り、望祀堂下で三獻が香酒馬湩を堂中の黄羅幕下に安置し、獻官は各自の齋次に退いて服を解く。
- 齋戒:前3日未明、有司が三獻官以下の位を中書省に設ける(太尉は南向き、監祭御史・監禮博士は東西に、司徒・亞獻・終獻はその南、助奠以下は稍後方、太常卿以下の諸執事官は等級ごとに北向き西上で整列)。禮直官が太尉初獻を導いて誓を読む「某年某月某日上戊日、太社太稷を祭る。各々その職を揚げよ。もし不敬あらば国に常刑あり」。散齋2日は正寢に宿し、致齋1日は祠所で行う。散齋日は平常通り公務するが、弔喪・問疾・作樂・刑罰の判断・穢悪事に関与しない。致齋日は祭事のみを行い他は禁じる。祭に参与すべき官で齋を経ず欠ける者は代行させる。七品以下の官は先に退く。守壝門の兵衛・大樂工人も清齋1日を行う。行禮官は前もって祠所で儀を習う。
- 陳設:前3日、三獻以下の官の宿次を齋房内に設け、饌幕4を西神門外やや南、西向き北上に設ける(現在は饌幕殿が西壝門外近北・南向きにある)。祭2日前、兵衛が方色の器服で壝門を守衛(各門2人、各隅1人)。大樂令が属官を率いて登歌の樂を両壇上やや北・南向きに設け、磬簴を東、鐘簴を西、柷を鐘簴の南やや東、敔を磬簴の南やや西、搏拊2を柷・敔の南にそれぞれ配し、歌工・楽工を後方に配置。太社令が属官を率いて壇の上下を清掃し、瘞坎2を壬地に南出の陛前に掘る。祭1日前、司天監・太社令が神座を壇上近南・北向きに設け、后土神座を太社神座の左、后稷神座を太稷神座の左に東向きに設け、席は莞(い草)の裀褥で幣と同色。神位版を各座首に置く。奉禮郎が三獻官の位を西神門内道南に設け、以下各官の位を順に定める。監祭御史・監禮博士の位を太社壇子陛の東北に、奉禮郎の位を稷壇の西北隅に、贊者の位を東北隅に、協律郎の位を各壇の樂簴東北にそれぞれ設ける。籩豆の数は各位につき籩10・豆10・簠2・簋2・鉶3・俎5・盤1、饌幕内には籩1・豆1・簠1・簋1・俎3・毛血豆1別置。尊罍の位も詳細に配置する。祭日丑時前五刻、司天監・太社令が神位版を壇上に設け、玉幣を陳ねる(正位の礼神の玉は両圭に邸を有し匣に置く、配位の幣は𤣥色各長1丈8尺、篚に陳ねる)。瘞玉は玉石製で神座前に置く。光禄卿が属官を率いて籩豆簠簋に実を盛る(籩は3行、豆は3行、それぞれ品目が定められている)。良醖令が属官を率いて尊罍に酒(泛齊・醴齊・盎齊・醍齊・沈齊・三酒等の種類、正位・配位で異なる)を実す。太常卿が神座前に燭を設ける。
- 省牲器:前1日午後、諸衞が行人を禁じ、太社令が壇の上下を清掃、司尊彛・奉禮郎が祭器を位に設け、司天監・太社令が神位版・玉幣を儀の通りに設ける(告潔後いったん撤する)。祭日重ねて設ける。未後、廪犧令と太祝・祝史が牲を位に就け、太常卿・監祭・監禮・太官令が省牲位に立ち、太常卿が太社壇・太稷壇で滌濯を視察し「潔」と告げる。太常卿が牲を省し、廪犧令が牲を巡って「充」と告げ、諸太祝が「腯」と告げる。次いで省饌の位に就く。省饌を終え齋所に還る。廪犧令・太祝が牲を厨に牽き太官令に授け、光禄卿以下が厨で鼎鑊の滌溉を視察する。晡後、太官令が宰人を率い鸞刀で牲を割き、祝史が豆で血を取り饌幕に置く。血の一部は瘞める分として盤に貯える。牲を烹る。
- 奠玉幣:祭日丑前五刻、三獻官以下が服を整え、神位版・玉幣・籩豆簠簋尊罍を設ける。監祭・監禮が壇の上下を視察し覆いを取り去る。未明、大樂令が楽工を、奉禮郎・贊者が執事を導いて位に就く。監祭・監禮以下は太社壇北墉下に南向きで整列、奉禮の号令で再拝する。祝史が血の盤を、太祝が玉幣を捧げて壇に上り尊所に立つ。監祭・監禮が壇の上下を視察し不備を糾察する。三獻以下の執事官が西神門南偏門より入場。禮直官が「有司謹んで具え行事を請う」と言い、協律郎が麾を挙げ楽が奏される(八成)。太常卿が血を坎に瘞め、祝史は毛血豆を奉じるため待機。奉禮の号令で在位者が再拝する。諸太祝が篚から玉幣を取り尊所に立つ。禮直官が初獻を太社壇盥洗位に導き(楽作)、盥手・搢笏の上、壇に上り(楽作)太社神座前に立ち、跪いて太祝から玉幣を受け奠め、俛伏興・再拝する。次いで太稷壇でも同様の儀を行う。奠玉幣が終わる頃、祝史が正位・配位の毛血を壇上に運び太祝が奠める。
- 進熟:初獻が玉幣を奠めた後、有司が神厨に鼎8を設け、太官令が羊豕を鼎に実して饌幕内に陳ね、光禄卿が籩豆簠簋に実を盛った後、鼎の扄羃を除き匙を加える。太官令が羊豕を俎に載せる。初獻が復位した後、司徒が饌所に出て正配位の饌を奉じ、太官令が西神門より導入(正位は中門、配位は偏門)。諸太祝が壇上で迎え取り神座前に奠める。禮直官が初獻を再び太社壇盥洗位・爵洗位に導き、盥手・洗爵の後壇に上り、太社酌尊所で執事者から爵を受け、司尊者が羃を挙げ良醖令が太尊の泛齊を酌み(楽作)、初獻が神座前で三祭酒し奠爵、俛伏興・再拝する。舉祝官・讀祝官が祝文を読む。次いで后土氏の酌献も同様に行う。降りて太稷壇でも同様。亞獻・終獻も同様の儀(祝を読まないほかは同じ)。奠獻を終え、太祝が籩豆を徹する(楽作)。奉禮が「賜胙、衆官再拝」と告げ、送神の楽(一成)が奏される。三獻官が望瘞位に至り、諸太祝が篚を捧げて瘞玉・幣を取り、齋郎が俎に牲体・黍稷・爵酒を載せて坎に降ろし瘞める。禮畢を告げ、獻官以下が退出、監祭・太祝以下も北墉下で再拝して退出、祝史・齋郎・工人も退出し祝版を齋所で焼く。光禄卿・監祭・監禮が酒胙を展視して退く。
- 告祭の儀:告祭前3日、三獻官以下が公服で中書省に赴き誓戒を受ける。前1日省牲器。告日質明、諸執事が服を整え、監祭・監禮以下が北墉下で再拝、就位。監祭・監禮が陳設を視察。三獻・司徒・太常卿・光禄卿が就位。「有司謹具請行事」の後、降神の楽(八成)。太常卿が血を瘞め、奉禮郎の号令で再拝。初獻官が盥洗の後、社壇正位神座前で三上香・奠玉幣・再拝、配位神座前でも同様、稷壇でも同様の儀を行い降位。司徒が齋郎を率いて饌を進め奠める。初獻官が盥洗・爵洗・酌酒の後、社壇神位座前で三祭酒(茅苴に)、祝文を待って再拝、酒尊所で再び酌酒し配位神座前でも同様、稷壇でも同様の儀を行う。亞獻・終獻も同様(祝は読まない)。太祝が籩豆を徹し、奉禮が「賜胙、衆官再拝」を告げる。三獻・司徒・太常卿が瘞坎位に至り瘞める。禮畢。監祭・監禮・太祝・齋郎が北墉下で再拝して退出。
先農
- 先農の祀りは至元9年(1272年)2月に始まり、社を祀る儀に倣うよう命じられた。至元14年(1277年)2月戊辰、東郊で先農を祀る。15年(1278年)2月戊午、蒙古の胄子(貴族子弟)に耕籍田を代行させ先農を祀る。21年(1284年)2月丁亥、翰林學士承旨の色埒黙(セレメド)に籍田で先農を祀らせた。武宗至大3年(1310年)夏4月、大司農の請により農桑二壇を建てる。博士の議では二壇の式は社稷と同じとし、縦広10歩、高5尺、四方に陛を出す。外壝は互いに25歩離す想定だったが、先農・先蠶壇壝が籍田内にあるため外壝を築くと千畝を妨げるとして外壝は築かないこととした。この年より社稷の礼楽に倣って先農を祀ることを命じ、登歌を用いる。日は仲春上丁の後(あるいは上辛、甲日)とする。祝文は「維某年月日、皇帝敬遣某官、昭告于帝神農氏。配神曰、于后稷氏」。
- 祀の前1日未後、禮直官が三獻・監祭禮以下を導き通常の儀で省牲饌。祀日丑前五刻、有司が燈燭を陳ね祝幣を設け、太官令が籩豆尊罍に実を盛る。丑正、先班が就位。監祭禮が壇の上下を視察し東向きに立つ。奉禮の号令で再拝、諸執事が就位。三獻官・与祭官が西向きに就位。有司謹具請行事の後、楽(三成)。奉禮の号令で在位者が再拝。太祝が篚から幣を取り尊所に立つ。初獻官が盥洗の後、神位前で三上香・受幣・奠幣、再拝。太官令が齋郎を率いて饌を設ける。初獻が再度盥洗・爵洗の後酒を酌み、正位神位前で三祭酒(沙池に)、祝を待って再拝。配位酒尊所でも同様。亞獻・終獻も同様(祝は読まない)。禮直官が籩豆の徹を贊し、楽が奏される。奉禮が「賜胙、衆官再拝」を告げ、送神の楽(一成)。齋郎が幣・俎(牲体・籩豆簠簋)を坎位に運び瘞める。三獻が耕地の場に至り耕して退く。これが儀である。先蠶の祀りについては伝わらない。
宣聖
- 宣聖廟は太祖が燕京に始めて置いた。至元10年(1273年)3月、中書省が命じ、春秋の釋奠には執事官が各自の品に応じ公服を着し、陪位の諸儒は襴帯・唐巾で礼を行う。成宗が即位して京師に宣聖廟の建立を命じ、大徳10年(1306年)秋に廟が成った。至大元年(1308年)秋7月、詔により先聖に「大成至聖文宣王」の号を加える。延祐3年(1316年)秋7月、詔により春秋の釋奠で顔子・曽子・子思・孟子を配享し、孟子の父を邾国公、母を邾国宣献夫人に封じる。皇慶2年(1313年)6月、許衡を從祀に加え、さらに先儒の周惇頤・程顥・程頤・張載・邵雍・司馬光・朱熹・張栻・呂祖謙を從祀とする。至順元年(1330年)、漢儒董仲舒を從祀とする。齊国公叔梁紇(孔子の父)を啓聖王に、魯国太夫人顔氏を啓聖王夫人に、顔子を兖国復聖公に、曽子を郕国宗聖公に、子思を沂国述聖公に、孟子を鄒国亜聖公に、程顥を河南伯・豫国公に、程頤を伊陽伯・洛国公に加封する。
- 祝幣の式:祝版3枚(各1尺2寸、広8寸、楸・梓・栢材使用)。文言「維年月日、皇帝敬遣某官等致祭于大成至聖文宣王」(先師には「維年月日某官等致祭于某国公」)。幣3は絹製、各長1丈8尺。
- 牲齊器皿の数:牲は牛1・羊5・豕5。犧尊は泛齊、象尊は醴齊をそれぞれ3ずつ実し上尊・羃・勺を備える。堂上に太尊(泛齊)、山罍(醴齊、上尊)、著尊(盎齊)、犧尊(醴齊)、象尊(沈齊)、壺尊(三酒、いずれも上尊)を設ける。堂下阼階の東に盥洗位を設け、両廡近北に象尊(醴齊、上尊・羃・勺)を設ける。盥洗位は階下近南。籩10・豆10・簠2・簋2・登3・鉶3・俎3(毛血豆を含む)は正配位とも同じ、籩豆はいずれも2、簋1・簠1・俎1は從祀もみな同じ。銅器の総数は681点。宣和爵坫1、豆248、簠簋各115、登6、犧尊・象尊各6、山尊2、壺尊6、著尊・太尊各2、罍2、洗2、龍勺27、坫28、爵118。竹木の器384点。籩248、篚3、俎133。陶器3、瓶1、香炉1。籩巾241、簠簋巾248、俎巾133、黄巾蒙単10。
- 楽(登歌)は春秋二仲月の上丁(故あれば中丁に改める)を用いる。
- 釋奠の儀:省牲は前1日晡時、三献官・監祭官が公服で省牲所に赴き、阼階東西に北を上として立つ。牲を巡り「充」「腯」を告げる儀を経て神厨で滌溉を視察し、齋所に還り服を解く。釋奠当日丑前五刻、初獻官・両廡分奠官2員が幕次で公服を整え、諸執事者は儒服で神門外に整列。明贊・承伝贊の唱えに従い、殿庭前で再拝し、諸執事が各自の司る事に就く。引贊者が初獻官・両廡分奠官を各神位(大成至聖文宣王、兗国公、鄒国公、東西從祀、先儒)の前・酒尊所・爵洗位に導き点視する。班齊の後、闢戸・迎神の楽(九奏)が奏され、初獻官以下が再拝する。初獻官奠幣:盥洗・升殿・大成至聖文宣王神位前で三上香・奠幣・再拝、兗国公・鄒国公神位前でも同様。禮饌官が俎を進める。初獻官行禮:盥洗・爵洗・酒尊所で酌獻の後、大成至聖文宣王神位前で三上香・三祭酒・奠爵、祝を読み、再拝。左配位(兗国公)・右配位(鄒国公)にも同様に酌獻・読祝。亞獻官・終獻官も同様の儀(祝は読まない)を行う。分獻官(東西從祀)・両廡分奠官も同様の作法で酌獻する。禮饌者が徹豆。送神の楽が奏され、初獻官以下再拝。祝・幣を瘞坎に運び瘞める。三獻官が望瘞位に立ち会う。典楽官・諸官が退き、闔戸。初獻官以下が圓揖位に退き(初獻は西、亜終獻・分獻以下は東、陪位官は東西に分かれる)、圓揖の礼を終え退く。飲福受胙は国学以外の諸処では常制による。
- 闕里の廟:太宗9年(1237年)、先聖51代孫で襲爵した衍聖公孔元措に命じて修めさせ、費用を給し代祠させた。代祠の礼は武宗の代に始まり、牲は太牢を用い、礼物として別に白金150両、綵幣表裏各13匹を給した。至大4年(1311年)冬、祭酒劉賡を遣わして再び祀らせ、牲礼は旧に従う。延祐末・泰定・天暦初もこの典に従い、錦幣雑綵は加増された。
岳鎮海瀆
- 五岳・四鎮・四海・四瀆への代祀は中統2年(1261年)に始まる。全19処を5道に分け、当初は東岳・東海・東鎮・北鎮を東道、中岳・淮瀆・済瀆・北海・南岳・南海・南鎮を南道、北岳・西岳・后土・河瀆・中鎮・西海・西鎮・江瀆を西道とした。後に驛騎の迂遠を理由に改めて5道とし、各道に使者2人(集賢院が漢官を、翰林院が蒙古官を奏遣)を派遣、璽書を出し駅を給して行かせた。中統初は道士または漢官を副えて遣わした。至元28年(1291年)正月、帝は中書省臣に「五岳四瀆の祠事は朕自ら赴くべきだが、道が遠く大臣たる卿らも国務があるため、重臣を遣わし朕に代わり祠らせる。漢人の名儒や祀事に習熟した道士を選べ」と語った。礼物は毎処歳祀に銀香合1(重25両)、五岳には組金幡2・鈔500貫、四瀆には織金幡2・鈔250貫、四海五鎮には銷金幡2・鈔250貫を給した。皇帝が即位すると官を遣わし致祭・降香させ、幡・合は前例通りだが銀を各50両加え、五岳は中統鈔500貫、四瀆四海五鎮は中統鈔250貫を加える。他に祈祷があれば同様とする。
- 封号:至元28年(1291年)春2月、東岳を天斉大生仁聖帝、南岳を司天大化昭聖帝、西岳を金天大利順聖帝、北岳を安天大貞玄聖帝、中岳を中天大寧崇聖帝に加封。江瀆を広源順済王、河瀆を霊源弘済王、淮瀆を長源溥済王、済瀆を清源善済王、東海を広徳霊会王、南海を広利霊孚王、西海を広潤霊通王、北海を広沢霊祐王に加封。成宗大徳2年(1298年)2月、東鎮沂山を元徳東安王、南鎮会稽山を昭徳順応王、西鎮呉山を成徳永靖王、北鎮医巫閭山を貞徳広寧王、中鎮霍山を崇徳応霊王に加封し、有司に嵗時ごとに岳瀆と同様に祀るよう勅した。
郡縣社稷
- 至元10年(1273年)8月甲辰朔、諸路に社稷壇壝の儀式を頒布。16年(1279年)春3月、中書省が太常礼官に命じ郡県社稷壇壝の祭器制度・祀祭儀式を定め、図に描いて書とし『至元州郡通礼』と名づけた。元貞2年(1296年)冬、太常に再び議させ、壇を城の西南に置くこととし、二壇の方広は太社太稷の半分とする。壺尊2、籩豆はいずれも用いるが楽は用いず、牲は羊・豕を使う。他は太社太稷と同じ。三献官は州の長貳(長官・次官)が務める。
郡縣宣聖
- 中統2年(1261年)夏6月、詔により宣聖廟及び所在の書院に嵗時の致祭・月朔の釋奠を命じた。8月丁酉、開平守臣に宣聖廟での釋奠を命じる。成宗即位に際し、詔により曲阜林廟・上都・大都・諸路府州県邑の廟学・書院に贍学の土地及び貢士荘を給し、春秋二丁・朔望の祭祀の資に充て廟宇を修完させた。これにより天下の郡邑の廟学は完葺されないところがなくなり、釋奠はすべて旧儀に従った。
郡縣三皇廟
- 元貞元年(1295年)、初めて郡県に三皇(太皥伏羲氏・炎帝神農氏・黄帝軒轅氏)を宣聖釋奠の礼に倣って通祀するよう命じた。伏羲氏には勾芒氏の神を、神農氏には祝融氏の神を、軒轅氏には風后氏・力牧氏の神を配祀する。臣の兪跗以下10人で医書に姓名を載せる者を両廡に從祀する。有司は嵗ごとに春秋二季に行事し、医師がこれを主る。
嶽鎮海瀆常祀
- 至元3年(1266年)夏4月、嵗祀嶽鎮海瀆の制を定める。正月、東嶽・鎮・海・瀆の土王日に泰安州で泰山を、益都府界で沂山を祀る。立春日には萊州界で東海を、唐州界で大淮を祀る。3月、南嶽・鎮・海・瀆は立夏日に河南府界で衡山を遥祭、土王日に会稽山を遥祭。立夏日、萊州界で南海・大江を遥祭。6月、中嶽・鎮の土王日に河南府界で嵩山を、平陽府界で霍山を祀る。7月、西嶽・鎮・海・瀆の土王日に華州界で華山を、隴県界で呉山を祀る。立秋日、河中府界で西海・大河を遥祭。10月、北嶽・鎮・海・瀆の土王日に曲陽県界で恒山を、遼陽広寧路界で医巫閭を祀る。立冬日、登州界で北海を、済源県で済瀆を遥祭。祀官は所在の守土官が務める。江南を得た後は遥祭を廃した。
風雨雷師
- 風雨雷師の祀りは至元7年(1270年)12月、大司農の請により立春後の丑日に東北郊で風師を、立夏後の申日に西南郊で雷雨師を祀ることとした。仁宗延祐5年(1318年)、二郊に壇壝の制を定めたが、その儀注は伝わらない。
武成王
- 武成王廟は樞密院公堂の西に建てられ、孫武子・張良・管仲・楽毅・諸葛亮以下10人を從祀する。毎歳春秋仲月の上戊に羊1・豕1・犧尊・象尊・籩豆・俎・爵を供え、樞密院が官を遣わして三献の礼を行う。
古帝王廟
- 堯帝廟は平陽に、舜帝廟は河東・山東済南・歴山・濮州・湖南道州にある。禹廟は河中の龍門にある。至元元年(1264年)7月、龍門禹廟が成り、侍臣に香を持たせ致敬させ祝文を作った。12年(1275年)2月、伏羲・女媧・舜・湯等の廟を河中・解州・洪洞・趙城に立てる。15年(1278年)4月、会川県の盤古王祠を修め祀る。24年(1287年)閏2月、勅により春秋二仲丙日に帝堯廟を祀る。致和元年(1328年)、礼部が太常に送り博士に議させ、舜禹の廟も堯祠の故事に依り毎歳春秋仲月上旬に卜日し有司が蠲潔・致祭・官給祭物とすべきとした。至順元年(1330年)3月、太常奉禮郎薛元徳の言により、彰徳路湯陰県北の故羑里城の周文王祠について、有司に故事の通り奉祀させるよう命じた。
周公廟
- 周公廟は鳳翔府岐山の陽にある。天暦2年(1329年)6月、岐陽廟を岐陽書院とし学官を設け、春秋の釋奠を周文憲王として孔子廟の儀に倣う。凡そ有司の致祭する先代聖君名臣はみな牲を供えるが楽は用いない。
名山大川忠臣義士之祠
- 凡そ名山大川・忠臣義士で祀典にある者は所在の有司がこれを主る。ただし南海女神霊恵夫人は海運を護って霊験があったため天妃の号を加封され、神号は積んで10字に至った。廟は霊慈と号し、直沽・平江・周涇・泉福・興化等の処にみな廟がある。皇慶(1312-1313年)以来、歳ごとに使を遣わし香を齎して遍く祭り、金幡1合・銀1鋌を平江官漕司及び本府官に付し、柔毛(羊)・酒醴・便服で行事する。祝文は「維年月日、皇帝特遣某官等致祭于護国庇民広済福恵明著天妃」という。
功臣祠
- 功臣の祠は、故淮安忠武王(バヤン)が杭州に廟を立て、春秋二仲月次戊に少牢を用い籩豆簠簋を用いて酌獻の礼を行う。魏国文正公許衡の廟が大名に、順徳忠献王ハラハス(哈喇哈斯)の廟が順徳・武昌にあり、いずれも歳時に致祭する。古帝王以下の祠は祭器に籩豆簠簋を用いず、酌奠の儀でない者は有司が便服で三上香・奠酒するのみである。
大臣家廟
- 大臣の家廟は、至治初(1321年頃)に右丞相拝珠(バイジュ)が五廟を同堂異室の形で立てたのみで、その牲器・儀式は伝わらない。