元史卷六十一 志第十三 地理四

雲南諸路行中書省

路37・府2・属府3・属州54・属県47(そのほか甸寨軍民等府は含まず。馬站74か所・水站4か所)。

  • 雲南諸路道肅政廉訪司(大徳3年雲南行御史臺を廃し肅政廉訪司を立てる)
  • 中慶路(上):唐の姚州、閤羅鳳(コロホン)が唐に叛き姚州を取り、その子鳳伽異が城を増築し柘東と称し、6世の孫豐祐に至り善闡と改称、歴五代から宋まで羈縻のみ。元の世祖が大理を征し府8を収める、善闡はその一。郡4・部37、その地東は普安路の横山、西は緬地の江頭城に至り凡そ3,900里遠く、南は臨安路の鹿滄江、北は羅羅斯の大渡河に至り凡そ4,000里近い。憲宗5年萬戸府19を立て善闡を萬戸府4に分ける。至元7年路に改称(8年大理国37部を南北中3路に分け路に達嚕噶齊と総管を設置)、13年雲南行中書省を立て初めて郡県を置き善闡を中慶路と改称。司1・県3・州4(州はさらに8県を領す。本路軍民屯田22,400双余)を管轄。
  • 録事司
  • 県3:昆明(中、倚郭。唐置。元憲宗4年その地を分けて千戸を立て至元12年善州と改め21年州を廃止しまた県とする。この地には昆明池があり500余里、夏の潦水で必ず城郭を冒すため大理等處勧農使が泉源の出所を求めその水を洩らして万余頃の地を得、みな良田となったという)、富民(下。至元4年黎灢千戸を立て12年黎灢に県を置く)、宜良(下。唐の匡州がこの地で、蛮酋羅氏がここに城を立て居り羅裒龍と名付けた、今の県である。元憲宗6年太池千戸を立て嵩明萬戸に隷属、至元13年宜良州に昇格し太池県を治所とし21年州を廃止し県とし後太池を廃し来属)
  • 州4:嵩明州(下。州は中慶東北にあり沙札臥城に治す。烏蠻の車氏が築いた城で白蛮は嵩明と呼び、昔は漢人が居ったが後に烏白蛮が強盛となり漢人は去り、ここで盟誓したため嵩盟と号す。今州の南に土台があり盟会の場所。漢人はかつて長州を立て金城・阿葛の2城を築いたが蒙氏が興り長州を嵩盟部と改め段氏がこれを踏襲。元憲宗6年嵩明萬戸を立て至元12年また長州と改め15年嵩明府に昇格、22年州に降す。県2を管轄:楊林〈下。州の東南にあり楊林城に治す。もと雑蛮の枳氏・車氏・斗氏・麽氏4種の居住地、城の東門外に羊形の石があるため羊とも書く。唐に羊林部落がありこの地。元憲宗7年羊林千戸を立て至元12年県に改める〉・邵甸〈下。州の西にあり白邑村に治し城郭なく車蛮・斗蛮の旧地、東を東甸とし東より邵という。憲宗7年邵甸千戸を立て至元12年県に改める〉)/晉寜(下。唐の晉寧県、蒙氏・段氏はともに陽城堡部とした。元憲宗7年陽城堡萬戸を立て至元12年晉寧州に改める。県2を管轄:晟貢〈下。西は滇澤の濵に臨み路の南、州の北にあり間の距離60里、故城があり晟貢といい世々些麽強宗部蛮の居住地。元憲宗6年晟貢千戸を立て至元12年詔營・切龍・晟貢・雌甸・塔羅・和羅忽の6城および烏納山を割いて晟貢県を立てる〉・歸化〈下。州の東北、晟貢県の南、西は滇澤に濵し大呉龍という地名で昔呉氏が居った後、些麽徒蛮の有となり世々善闡に隷属、憲宗6年晟貢千戸に隷属を分け至元12年大呉龍・安江・安淜を割いて歸化県を立てる〉)
  • 昆陽州(下。滇池の南にあり僰・獹の雑夷が居り巨橋という城がある、今の州治。閤羅鳳が唐に叛き曲轉蛮に居らせ段氏が興ると善闡に隷属。元憲宗が羅畐等12城を併せ巨橋萬戸を立て至元13年昆陽州に改める。県2を管轄:三泊〈下。至元13年那龍城に県を立てる〉・易門〈下。州の西にあり市坪村に治し世々烏蛮の居住地、段氏の時高智昇が善闡を治めこれを併有。至元4年洟門千戸を立て12年県に改める、県の西に洟源という泉があり訛って易門〉)
  • 安寜州(下。唐初安寧県を置き昆州に隷属、閤羅鳳が唐に叛いた後烏白蛮が蒙氏に遷居、善闡の末に酋孫氏が安寧城主となり袁氏・高氏が互いにその地を有した。元憲宗7年陽城萬戸に隷属、至元3年安寧千戸を立て12年安寧州に改める。県2を管轄:禄豐〈下。州の西にあり白村に治す、瘴熱の地で大酋の居住せぬ地、烏雑蛮のみ居り遷徙常なし。至元13年安寧千戸の碌琫化泥驥琮籠3処を割いて禄豐県を立てる。江中に甑のような石があり俗に碌琫と呼ぶ、碌は石、琫は甑の意〉・羅次〈下。州の北にあり壓磨呂白村に治す、もと烏蛮羅部地で険俗が悍烈。至元12年羅部により羅次州を立て中慶路に隷属、24年州を廃し県とし27年安寧州に隷属〉)
  • 威楚開南等路(下):雑蛮耕牧の地、夷名は俄碌睒、歴代郡邑なく後に㸑酋(爨酋)威楚が城俄碌睒を築き居った。唐の時蒙舎詔閤羅鳳が六詔を合わせて一となり俄碌を侵し和子城(今の鎮南州)を取り、後に閤羅鳳が本境で叛き郡県を立て諸爨がみな蒙氏に附き2都督6節度を立てる、銀生節度がすなわち今の路。段氏が興り銀生は姚州に隷属しまた当筯瞼と称した。高昇泰が大理国柄を執り姪子の明量を威楚に封じ外城を築き徳江城と号し、伝わってその裔の長夀に至る。元憲宗3年大理を征しこれを平定、6年威楚萬戸を立て至元8年威楚路に改め總管府を置く。県2・州4(州はさらに1県を領す。本路軍民屯田共7,100双)を管轄。
  • 県2:威楚(下、倚郭。至元15年威州に昇格させ富民・浄樂の2県を立てるが21年州を降して威楚県とし2県を廃して郷とし来属)、定逺(下。路の北にあり目直睒という地名で雑蛮が居る。諸葛孔明が南中を征しここを経て後に牟州と号し、唐の蒙氏が爨蛮酋按萼に命じ牟州を鎮めさせ城耐籠を築く、高氏が大理国政を専らにするに及び雲南の些麽徒酋夷羨に命じ民200戸を黄蓬穽に徙し、擡萼故城は高氏に隷属。元憲宗4年牟州千戸を立て黄蓬穽を百戸とし至元12年定逺州に改め黄蓬穽を南寜県とし後に県を廃して郷とし州を県に改め本路に隷属)
  • 州4:鎮南州(下。路の北にあり昔は樸落蛮の居住地、川名は欠舎、中に城があり雞和という。唐の時蒙氏が六詔を併せ東蛮を征し和子・雞和の2城を取り石鼓県を置き、沙却に俗富郡を置く、沙却は今の州治。段氏の時、高明量を楚公に封じ欠舎・沙却はみな隷属した。元憲宗3年その酋が内附、7年欠舎千戸・石皷百戸を立て至元21年欠舎千戸を鎮南州に改め定邊・石鼓の2県を立て24年2県を廃して郷とし本州に隷属)/南安州(下。路の東南にあり山嶺が稠畳し内に一峰があり秀麗、麓は四周し頂に泉あり、昔黒爨蛮の祖瓦晟呉が柵を立てて上に居り子孫が漸く盛んになり他部に隷属しなかったが高氏に威楚が封ぜられるに及びこれに隷属。憲宗が摩芻千戸を立て威楚萬戸に隷属させ至元12年千戸を南安州に改め本路に隷属。県1を管轄:廣通〈下。州の北にあり夷名は路睒、雑蛮の居住地。南詔閤羅鳳が路睒県を立て段氏に至り高明量が威楚に封じられ、後に宜州酋の些麽徒裔の易裒等がこれに附き、高長夀に至り路睒に処し易裒は舊堡を去ること20里の山上に城を築き白龍戲新柵と称した。憲宗7年長夀内附し路睒千戸を立て至元12年廣通県に改め南安州に隷属〉)/開南州(下。路の西南にあり川は12甸に分かれ昔は樸・和泥2蛮の居住地。荘蹻が滇池に王たり漢武帝が西南夷を開き諸葛孔明が益州を定めたが皆この境に涉らなかった。蒙氏が興り銀生府を立てるに至るが後に金歯白蛮に陥られ府治を威楚開南に移し生蛮の拠地となった。南詔から段氏まで徼外荒僻の地。元中統3年これを平定し威楚萬戸に隷属させ至元12年開南州に改める)/威逺州(下。開南州の西南にあり川は6つ、昔は樸・和泥2蛮の居住地。蒙氏が興り威楚を開き郡とすると州境も通じるようになるが後に金歯白夷蛮酋阿只歩等がその地を奪う。中統3年これを征し悉く降す、至元12年開南州および威逺州を立て威楚路に隷属)
  • 武定路軍民府(下):唐は戎州に隷属、滇北にあり昔は獹鹿等蛮の居住地。段氏に至り烏蛮アイに命じ納洟胒に六甸を治めて共に龍城を建てさせ、また城を築き易龍と名付け、その裔孫法瓦が浸盛しその遠祖羅婺を部名とする。元憲宗4年内附し7年萬戸を立て威楚に隷属、至元8年仁徳と于矢を北路に併合し12年2部を割いて本路を武定と改める。州2(州はさらに4県を領す。本路屯田748双)を管轄。
  • 州2:和曲州(下。路の西南にあり蛮名は叵簉甸、僰・&KR2225;等の諸種蛮の居住地で漢種が多い、漢人がかつて居ったことによるとも言う。蒙氏の時白蛮がその地に拠り段氏に至りアイが諸蛮聚落30余処を併呑しその兄弟子姪に分けて治めさせみな羅婺部に隷属した。元憲宗6年叵簉甸を和曲と改め至元26年州に昇格。県2を管轄:南甸〈下。路治は本県、蛮は瀼甸また洟陬籠と称す、至元26年県に改める〉・元謀〈下。夷中の旧名は環州、元は5甸を治め至元16年県に改める〉)/禄勸州(下。路の東北にあり甸名は洪農碌券、雑蛮が居り郡所なし。至元26年禄勸州を立てる。県2を管轄:易籠〈下。易籠は城名で州の北の培塲という地にあり、県境に2水があり蛮語で洟は水、籠は城の意、昔羅婺部の大酋がここに居り群酋が会集する所であった。至元26年県を立てる〉・石舊〈下。県は州の東にあり4甸がある、曰く掌鳩・法塊・抹捻・曲蔽。掌鳩甸に溪がありその三面をめぐるため数十渡と称し、今訛って石舊という。至元26年県を立てる〉)
  • 鶴慶路軍民府(下):府治は麗江路の東南、大理路の東北にあり、夷はその地を鶴川様共と呼ぶ。もと越析詔に隷属し漢唐は城邑を建てず、開元末閤羅鳳が六詔を合わせ一となり南詔と称し治を羊苴哶城に徙す、地は龍尾鶴柘に近く今の府がすなわちその地。大和年間蒙勧封祐が様共に謀統郡を立て蒙氏後の数姓もこれを踏襲。元憲宗3年内附し鶴州となし7年二千戸を立てなお謀統と称し大理上萬戸に隷属、至元11年謀統千戸を廃し鶴州に復し20年燕王の分地となり行省に隷属、23年鶴慶府に昇格。県1を管轄:劔川(下。県治は劔川湖の西、夷では羅魯城という。唐史によれば南詔に6節度あり劔川はその一。初め蒙氏が六詔を合わせる前、浪穹詔と南詔の戦いで浪穹詔が不勝で劔川に保ち浪劔と改称、貞元年間南詔がこれを撃破し劔共の諸川地を奪い、その酋は劔睒の西北400里に徙居し劔羌と号した。蒙氏の末から段氏に至り劔川を義督瞼と改め憲宗4年内附、7年義督千戸を立て至元11年千戸を廃し劔川県を立て鶴州に隷属。軍民屯田共2,000余双)
  • 雲逺路軍民總管府(元貞2年置く)
  • 徹里軍民總管府(大徳中置く。大徳中雲南省が「大徹里の地は八百媳婦と犬牙の如く相錯し勢力が均衡しているが、大徹里の胡念はすでに降ったが小徹里はなお控扼し地の利で多く相殺掠し合っている、胡念は日々これと相拒み離れられず、その弟胡倫を朝に入らせ地形を指画させ、別に徹里軍民宣撫司を立てて蛮夷情状に習熟した者を帥とし招撫し来附させ、進取の地としたい」と言上し徹里軍民總管府を立てる)
  • 廣南西路宣撫司(欠)
  • 麗江路軍民宣撫司:路は江により名を得た、金沙江は沙金を出すことに由来し、源は吐蕃界に出る。今の麗江は古の麗水、両漢から隋唐まで越嶲郡西徼の地。昔は麽蛮・些蛮が居り越析詔の2部があり、みな烏蛮種で鐵橋に居った。貞元年間その地は南詔に帰す。元憲宗3年大理を征し金沙より濟江すると麽些が固を負い服さず、4年春これを平定し察罕章管民官を立て至元8年宣慰司を立て13年麗江路と改め軍民總管府を立て、22年府を廃し通安・巨津の間に宣撫司を立てる。府1・州7(州はさらに1県を領す)を管轄。
  • 府1:北勝府(麗江の東にあり、唐の南詔の時鐵橋の西北に施蛮という者がおり貞元年間異牟尋に破られ移されその種を居らせ劔羌と号し、その地を成偈睒と名付けまた善巨郡と改める。蒙氏の末から段氏の時、高智昇がその孫高大惠にこの郡を鎮めさせ後に大理に隷属。元憲宗3年その酋高俊が内附、至元15年施州に昇格、17年北勝州に改め20年府に昇格)
  • 州7:順州(麗江の東にあり俗名は牛睒、昔順蛮種が劔川に居ったが唐の貞元年間南詔異牟尋がこれを破り鐵橋・大婆・小婆・三探覽等の川に移り住み、その酋成斗族が漸く盛んになり自ら一部となり牛睒に遷居、13世の孫自瞠まで大理に隷属。元憲宗3年内附し至元15年斗睒を順州と改める)/蒗蕖州(羅共睒に治す、麗江の東北、北勝と永寧の南北の間にあり羅・落・麽些3種蛮が世居した。憲宗3年大理を征し至元9年内附、16年羅共睒を蒗蕖州と改める)/永寧州(もと樓頭睒と名付け吐蕃の東徼に接し荅藍麽些蛮の祖泥月烏が吐蕃を逐い出しこの睒に居り世々大理に属した。憲宗3年その31世の孫和字が内附、至元16年州に改める)/通安州(麗江の東、雪山の下に治す、昔は三睒と呼ばれ僕繲蛮の居住地、後に麽些蛮の葉古乍がこれを奪い有し世々大理に隷属した。憲宗3年その23世の孫麥良が内附、中統4年麥良を三睒管民官とし至元9年その子麥兀が父職を襲い14年三睒を通安州と改める)/蘭州(蘭滄水の東にあり、漢の永平年間はじめて博南山道を通し蘭滄水を渡り博南県を置く。唐は盧鹿蛮部となり段氏の時博溪郡を置き大理に隷属。元憲宗4年内附し察罕章管民官に隷属、至元12年蘭州と改める)/寶山州(雪山の東、麗江の西にあり三面が環帯する、昔は麽些蛮の居住地でその先は樓頭より徙りこの地に居ること20余世、世祖が大理を征する際に卞頭より濟江し羅邦より羅寺に至り大匱等の寨を囲う、その酋が内附しその寨を察罕忽魯罕と名付ける。至元14年大匱等7処に寶山県を立て16年州に昇格)/巨津州(もと羅波九睒と称し北は三川に接し鐵橋の西は吐蕃に隣る。案ずるに唐書南詔は鐵橋の南に居り西北は吐蕃に接す、今の州境は大理西北陬の要害地。麽些の大酋が世居し憲宗3年内附、至元14年九睒に巨津州を立てる、鐵橋は昔から南詔・吐蕃が交会する大津渡であったことに因み名付けた。県1を管轄:臨西〈下。州の西北にあり大理極辺の険僻の地、夷名は羅哀間、居民はみな麽些・二種蛮。至元14年羅裒問に大理州県を立て臨西県とし、西は吐蕃境に臨むため名付けた。巨津州に隷属〉)
  • 東川路(下、至元28年立つ)
  • 茫部路軍民總管府(下):益良州(下)、强州(下)
  • 孟傑路(東川路以下、闕。安泰定3年八百媳婦蠻が官守を請い木・孟傑の2府をその地に置く)
  • 普安路(下):治は盤町山の陽、巴盤江の東にあり古夜郎の地。秦は黔中地、両漢は牂柯郡、蜀は興古郡、隋は牂州を立て、唐は西平州を置き後に興古郡を盤州と改める。蒙氏が唐に叛くとその地は南詔東鄙となり東爨烏蛮7部落が居った、後にその爨酋阿宋が諸蛮を逐いその地に拠り于失部と号し世々酋長となる。元憲宗7年その酋が内附し于失萬戸と命名、至元13年普安路總管府に改め翌年招討司を立て16年宣撫司に改め22年司を廃止し路とする
  • 曲靖等路宣慰司軍民萬戸府:曲靖2州は漢代夜郎味県の地、蜀は興古郡を分置、隋初は恭州・協州、唐は南寧州を置く。東西爨は烏白2種蛮に分かれ曲靖州の西南昆川から龍和城に至るまで西爨白蛮と称し、彌鹿升麻の2川の南から步頭に至るまで東爨烏蛮と称した。貞観中西爨の帰王を南寧都督とし東爨の首領を襲殺すると葢聘・南詔閤羅鳳が兵で西爨を脅し龍和に徙し皆兵禍に残敗した。東爨烏蛮が復振し西爨の故地に徙居して世々南詔と婚姻し曲靖州に故居した。天寳末南詔を征しここで進次し曲靖州を大敗、その地はついに蛮に沒す。元憲宗6年磨彌部萬戸を立て至元8年中路に改め13年曲靖路總管府に改め20年皇太子に隷属、25年宣撫司に昇格。県1・州5(州はさらに6県を領す。本路屯田4,480双、歳輸金3,550両・馬184)を管轄。
  • 県1:南寜(下、倚郭。唐は爨帰王を南寧州都督とし石城を治所とし閤羅鳳の叛乱で州は廃し蒙氏は石城郡と改め段氏に至り烏蛮磨彌部酋が石城に拠る。元憲宗3年内附し6年千戸を立て磨彌部萬戸に隷属、至元13年南寧州に昇格し22年県に改める)
  • 州5:陸涼州(下。すなわち漢牂柯郡の平夷県、南詔の叛乱後落温部蛮が世居した。憲宗3年内附し落温千戸を立て落蒙萬戸に属す、至元13年陸涼州に改める。県2を管轄:芳華〈下。州の西にあり〉・河納〈下。州の南にあり蔡村に治す〉)/越州(下。路の南にありその川名は魯望、普麽部蛮が世居した。憲宗4年内附し6年千戸を立て末迷萬戸に隷属、至元12年越州に改め曲靖路に隷属)/羅雄州(下。溪洞蛮獠と接壌し歴代未だ郡を置かなかった、夷はその地を塔敝納夷甸と呼ぶ、俗伝に盤瓠6男の一を蒙由丘といいその後裔に羅雄という者がいてこの甸に居りその孫普恐に至りその部を羅雄と名付けた。憲宗4年内附し7年普摩千戸に隷属、至元13年夜苴部を割いて羅雄州とし曲靖路に隷属)/馬龍州(下。夷名は撒匡、昔は僰剌が居ったが盤瓠裔の納垢が旧蛮を逐いその地を有し羅苴の内附に至りその部に千戸を立て至元13年州に改める、すなわち旧の馬龍城。県1を管轄:通泉〈下。州の西南にあり嵩明州楊林県と接壌し納垢の孫易陬が分居した地、元初易龍百戸となり馬龍千戸に隷属し至元13年通泉県と改称し馬龍州に隷属〉)/霑益州(下。本路の東北にあり南盤江・北盤江の間に拠る。唐初州を置くが天寶末蛮に沒し僰剌の2種が居り後に磨彌部がこれを奪い元初その孫普垢アイが内附、憲宗7年本部を曲靖磨彌萬戸府に隷属させ至元13年霑益州に改める。県3を管轄:交水〈下。易陬龍城に治す、その先は磨彌部酋蒙提が居ったが後に大理国高護軍がその子孫を逐い私邑とした。憲宗5年内附し至元13年その城に県を立てる〉・石梁〈下。磨彌部に係りまた伍勒部と呼ぶ、その酋は世々巫を務め石梁原山に居った、至元13年県とする〉・羅山〈下。夷名は落蒙山、すなわち磨彌部の東境〉)
  • 澂江路(下):治は滇池の東南にあり、唐は牂州に属し黔州都督府に隷属したが開元中覊縻州に降す。今夷はその地を羅伽甸と呼ぶ、初め麽些蛮が居り後に僰蛮に奪われ南詔蒙氏は河陽郡とし段氏に至り麽些蛮の裔がまたこの甸に居り羅伽部と号した。元憲宗4年内附し6年羅伽部を萬戸とし至元3年萬戸を中路に改め16年澂江路に昇格。県3・州2(州はさらに3県を領す。本路屯田4,100双)を管轄。
  • 県3:河陽(下。内附後千戸となり至元16年河陽州となるが26年県に降す)、江川(下。澂江路の南、星雲湖の北にあり蒙氏が唐に叛くと白蛮を居らせ段氏に至り些麽徒蛮の裔がこの城に居り步雄部と改称、後にその弄景が内附し本部を千戸とし至元13年千戸を江川州に改め20年県に降す)、陽宗(下。本路の西北、明湖の南にあり昔麽些蛮が居り強宗部と号し、その酋盧舍が内附し本部千戸を立て至元13年県に改める)
  • 州2:新興州(下。漢の新興県、唐初牂州に隷属したが後に南詔の叛乱で覊縻州に降し蒙氏は温富州とし段氏の時麽些蛮が分居、内附後千戸に立てられ至元13年新興州に改め澂江路に隷属。県2を管轄:普舍〈下。州の西北にあり昔強宗部蛮の裔、長を部傍と呼び普具龍城に拠り次を普舍と呼び普札龍城に拠った、2城の西に白城があり漢人が築いたもの、2酋がしばしばその地を争い定まらなかったが後に普舎の孫苴アイが内附し本部を千戸に立て13年千戸を普舎県に改め治は普札龍城、新興州に隷属〉・研和〈下。些麽徒蛮の步雄が居った、その孫龍鍤が内附し百戸を立て至元13年県に改める〉)/路南州(下。本路の東にあり夷名は路甸、城があり撒吕という、黒爨蛮の裔落蒙がこれを築き子孫が世居し落蒙部と名付けた。憲宗朝に内附し本部に萬戸を立て至元7年落蒙・羅伽・末迷の3萬戸を中路に併合、13年中路を2路に分け羅伽を澂江路、落蒙を路南州とし澂江路に隷属。県1を管轄:邑市〈下。至元13年邑市・彌歪の2城に邑市県を立て彌沙等5城に彌沙県を立て24年彌沙を本県に併合し路南州に隷属〉)
  • 普定路:もと普里部、帰附後普定府と改める(至元27年初め斡羅思・呂國瑞が丞相サンガおよびアスムル等に賄賂し羅甸宣慰司を併合するよう請い、羅甸国ジャワと龍家・宋家・犵狫・猫人等の諸種蛮夷4万6,600戸が阿卜阿牙者らを来朝させ曲靖路宣慰同知トインおよび普安路官に阻まれた際、雲南行省が「羅甸はすなわち普里、帰附後普定府と改め印信は具存し雲南省に隷属して30余年賦役は期の如し、今併合する羅甸宣慰安撫司は湖南省に隷属している、斡羅思等が擅に兵で普定土官の子ジャワ・シギらを脅し入覲させ功を邀り賞を希おうとしている、これを罷めその地を雲南に隷属させるべき」と言上し制可された)。大徳7年路に改める(大徳7年中書省臣が「蛇節・宋隆濟らが乱を作した際、普定知府容苴が衆を率いて効順したがその後戦死し、妻の適姑もよく戎行を宣力できるのでその夫職を襲わせ、普定を路に改め曲靖宣慰司に隷属させ適姑を本路總管虎符とすべき」と言上した)
  • 仁徳府:昔は僰剌蛮が居り郡県なく、その部を仲扎溢源と呼んだ。後に烏蛮の裔新丁がこれを奪い有し4世の孫に至りその祖の名新丁により部号としたが語が訛って仁地となった。憲宗5年内附し翌年本部を仁地萬戸とするが元初また叛き4年これを降しなお萬戸とし13年萬戸を仁徳府に改める(本府屯田560双)。県2を管轄:為美(下。府の北、溢浦適佀睒甸という地にあり仁地の故部、至元24年県を置く)、歸厚(下。府の西、易浪湳龍という地に治す、もと仁地部に隷属、至元24年倘俸・為美の2県を分立し25年倘俸を歸厚と改める)
  • 羅羅蒙慶等處宣慰司都元帥府
  • 建昌路(下):本は古の越嶲地、唐初中都府を設置し越嶲に治す。至徳中吐蕃に沒し貞元中これを復す。懿宗の時蒙詔が城を立て建昌府とし烏白2蛮でこれを実す、後に諸酋が強を争い相下らず地を4に分け段興が長となり、その裔が浸盛しついに諸酋を併せ自ら府主となる。大理は制することができず、伝わってアツォンに至り落蘭部の建蔕の女沙智と娶る。元憲宗朝、建蔕が内附しその婿アツォンに建昌を守らせ、至元12年その地を分けて總管府5州23を置き建昌はその一路、羅羅宣慰司を設けてこれを総べる。本路は県1・州9(州はさらに1県を領す。本路に軍民屯田を立てる)を管轄。
  • 県1:中縣(県治は住頭回甸にあり越嶲の東境。居住する烏蛮は自ら沙麻部と称し酋長の立つ処を中州とした。元至元10年内附し14年なお中州、22年県に降し建昌路に隷属)
  • 州9:建安州(下。すなわち総府の治所、建蔕を平定した後建昌府を萬戸2に分け千戸2を置く。至元15年建鄉城14村および建蔕4村を割いて寶安州を立て17年本千戸を建安州に改め26年寶安州を廃しその郷村が来属)/永寜州(下。建昌の東郭にあり、唐の時南詔が建昌郡を立て建安・永寧の2州を領した。元至元9年西平王が建蔕を平定し16年建昌を2州に分け城内を建安、東郭を永寧としともに建昌路に隷属)/瀘州(下。路の西にありもと沙城瞼と称し諸葛武侯が孟獲を禽にした地、瀘水があり深広で瘴気が多く行く者は稀、冬夏常に熱く源は鷄豚を燖ることができる。段氏の時熱水甸に城を立て洟籠と名付け建昌に隷属。憲宗の時建蔕が内附しまた叛き至元9年これを平定し15年洟籠を瀘州に改める)/禮州(下。路の西北、瀘沽水の東にあり治める所は籠麽城という、南詔の末諸蛮が相侵奪し段氏の興隆に至りその地を併有、裔孫アツォンが内附しまた叛き至元9年これを平定し千戸を設置、15年禮州に改める。県1を管轄:瀘沽〈州の北にあり昔羅落蛮の居住地、蒙氏の諸部覇者の時烏蛮酋がこの城を守り後に漸く盛んになり自ら落蘭部と号し或いは羅落と称す、その裔蒲徳が姪の建蔕を遣わして内附させたが建蔕は継いで叛き蒲徳を殺し自ら酋長となり諸部を併有した。至元9年これを平定し千戸を設置、13年萬戸に昇格、15年県に改める〉)/里州(下。唐は嶲州都督府に隷属、蒙詔の時落蘭部の小酋アドの裔がここに居りアド部と名付け、伝わってナクウに至り建蔕とともに内附、中統3年叛き至元10年その子ヤウェンが効順し烏蒙に隷属、18年千戸を設置、22年烏蛮とともに叛き羅羅斯に奔り、23年軍民總管府に昇格、26年府を廃し州となし建昌路に隷属)/闊州(下。州治は密納甸、古来城邑なく烏蒙が居った、昔仲由蒙の裔孫の名を科という者がここに居りこれにより部号とし後に訛って闊、37世の孫僰羅に至り内附し至元9年千戸を設置、26年州に改める)/邛部州(下。路の東北、大渡河の南、越嶲の東北にあり君長十数、筰都が最大。唐は邛部県を立てるが後蛮に沒し宋に至り毎年名馬・土物を貢し、その酋を邛都王に封じた、今その地は夷が邛部州と称し烏弄城に治す、昔麽些蛮が居りその後仲由蒙の裔がその地を奪う。元憲宗の時内附し中統5年邛部川安撫招討使を立て成都元帥府に隷属、至元10年羅羅斯宣慰司に割属し21年州に改める)/隆州(下。路の西南にあり漢の邛部県と境を接す、唐の㑹川県の西北にあり蒙氏は㑹川を㑹同に改め5瞼を立てる邏、本州は邊府瞼で後にその瞼主楊大蘭が瞼の北の塏上に城を立て分派して居り大隆城と名付ける、すなわち今の州治。元至元13年内附し14年千戸を設置し17年隆州に改める)/姜州(下。姜は蛮の名。烏蛮仲牟由の裔アダンジャンが初め閟畔部に居りその孫アラが大理国主高泰に仕える、この時㑹川に龍納という城があり羅落蛮が世居していたが、アラは高氏の勢を頼りこれを攻拔し祖名により絳部と称す。憲宗の時閟畔とともに内附しこれに隷属、至元8年落蘭部酋建蔕に破られ9年これを平定し㑹川に隷属、後建昌に属し15年姜州に改め27年また閟畔部に属し後また建昌に属す)
  • 德昌路軍民府(下):漢の邛都県の地、唐は南詔に沒す、路は建昌の西南にあり居住する蛮は屈部と号す。元至元9年内附し12年定昌路を立て本部を昌州とし23年定昌路を廃し德昌路に併合し本州の葛魯城に治す。州4(本路に軍民屯田を立てる)を管轄。
  • 昌州(下。路治は本州、初め烏蛮アクツの裔が浸盛し祖名により屈部と称し、その孫烏則が至元9年内附、12年本部を州に改め普濟・威龍を兼領し定昌路に隷属、23年定昌路を廃し德昌に併合隷属)
  • 德州(下。路の北にあり今名は吾越甸、城は亦苴龍という、居住する蛮の苴郎が遠祖名により部を頳綖と名付ける。憲宗の時内附し至元12年千戸を設置し13年德州に改め德平路に隷属、23年德昌に属を改める)
  • 威龍州(下。路の西南にあり夷名は巴翠部、小部3を領す(沙媧普宗・烏孫泥祖・媧諾龍菖蒲)、いずれも獹魯蛮種。至元15年3部を合わせ威龍州を立て德昌に隷属)
  • 普濟州(下。路の西北にあり夷名は玗甸、昔は荒僻の地で獹魯蛮が世居し後に屈部に属す。至元9年屈部とともに内附し15年玗甸に定昌路を立て23年路が廃され德昌に属を改める)
  • 㑹川路(下):路は建昌の南にあり、唐は邛都をここに移す、その地は征蛮の要衝、諸酋が会集する所ゆえ名付けた。天寶末南詔に沒し㑹川都督府を立てまた清寧郡と号す。段氏に至りなお㑹川府とする。元至元9年内附し14年㑹川路を立て武安州に治す。州5(本路に軍民屯田を立てる)を管轄。
  • 武安州(下。蛮は龍泥城と称す、至元14年管民千戸を立て17年武安州に改める)
  • 黎溪州(下。古来城邑なく蛮は黎彄と称し訛って今名となる、初め烏蛮と漢人が雑処し南詔閤羅鳳の叛乱で白蛮を徙してこれを守らせ蒙氏の末に羅羅がこれを逐い白蛮を去らせ、段氏の興隆で羅羅蛮乞夷にその地を拠らせた。至元9年その裔アイが内附しその部を黎溪州に改める)
  • 永昌州(下。路の北、故歸依城に治す、すなわち古の㑹川。唐の天寶末南詔に沒し㑹川都督を置き蒙氏に至り㑹同府に改め5瞼を置き張・王・李・趙・楊・周・髙・段・何・蘇・龔・尹の12姓をここに徙し趙氏を府主とし今の州城に居らせた。趙氏が弱まると王氏がこれに拠り、段氏と高氏の専政で王氏を逐いその子高政に㑹川を治めさせた。元憲宗3年大理を征すと高氏は逃げ去り、9年旧酋王氏の孫アロンが衆を率いて内附し至元8年その男アホに㑹川を領させ14年管民千戸に改め17年永昌州を立て㑹川路に隷属)
  • 㑹理州(下。㑹川府の東南にあり唐の時南詔の㑹川節度に属す、地名は昔陀、蛮名アダンジャンという者がおりこれも仲由蒙の遺種、その裔羅於則が昔陀の地を得て居り祖名により絳部と称し、後に強盛となり四州の地を尽く有し蒙歪と号した。元憲宗8年その孫亦蘆が内附し閟畔萬戸に隷属、至元4年落蘭部に属し13年㑹川路に属を改め15年㑹理州を置きなお㑹川に隷属、27年また閟畔路に属す)
  • 麻龍州(下。麻龍は城名、地名は棹羅能、烏蛮蒙次次の裔が祖として閟畔東川に居り後に普恐が苗臥龍に遷りその孫アマが内附、至元5年建蔕に併合され12年㑹川に属し14年管民千戸を立て㑹川路に隷属、17年州となり27年閟畔部に属を割く)
  • 栢興府:昔は摩沙夷が居り漢は定筰県として越嶲郡に隷属、唐は昆明県を立て天寶末吐蕃に沒し後に南詔に属し香城郡に改める。元至元10年その鹽井摩沙酋羅羅將&KR2225;鹿茹庫が内附し14年鹽井管民千戸を立て17年閏鹽州に改め&KR2225;鹿部を普樂州とし俱に德平路に隷属、27年普樂・閏鹽の2州を閏鹽県に併合し栢興府を立て羅羅宣慰司に隷属。県2を管轄:閏鹽(下、倚郭。夷名は賀頭甸、県境に鹽井があるため名付けた)、金縣(下。県は府の北にあり夷名は利寶揭勒、居る蛮はチュクブ、漢の越嶲郡の北境で吐蕃と接す。至元15年金州に昇格したが後に県に降す、県境の斛僰和山が金を産するため名付けた)
  • 臨安廣西元江等處宣慰司兼管軍萬戸府
  • 臨安路(下):唐は牂州に隷属、天寶末南詔に沒す。蒙氏は都督府2を立てその一を通海郡と称し段氏は秀山郡と改め阿僰部蛮が居った。元憲宗6年内附し本部を萬戸に改め至元8年南路に改め13年また臨安路に改める。県2・千戸1・州3(州はさらに2県を領す。宣慰司所領屯田600双、本路有司所管3,400双、爨僰軍千戸所管1,150双余)を管轄。
  • 県2:河西(下。県は杞麓湖の西にありまたその地を休臘と呼ぶ、昔は荘蹻がこの地に王たり唐初姚州の南に西宗州を置き3県を領し河西はその一。天寶後蛮に沒し步雄部となり後に阿僰蛮易渠がこれを奪い居り、元憲宗6年内附し7年阿僰部に千戸休臘を立てて隷属させ至元13年はじめて河西州とし臨安路に隷属、26年県に降す)、蒙自(下。県境は南は交趾に隣り西は建水州に近く、県境に山があり目則という、漢語では訛って蒙自、上に故城があり白夷が築いたもの、すなわち今の県治で下は巴甸に臨む、南詔の時趙氏がこれを鎮守し段氏に至り阿僰蛮が居った。憲宗6年内附しまた叛くが7年これを平定し千戸を設置し阿僰萬戸に隷属、至元13年阿僰萬戸を臨安路に改め本千戸を県とする)
  • 千戸1:捨資千戸(蒙自県の東、阿僰蛮の居住地、昔褒古また部嫋踵甸と名付け裔孫捨資に伝わりこれにより名付ける、内附後蒙自千戸に隷属、至元13年蒙自を県に改めその地は交趾に近いため捨資を安南道防送軍千戸とし臨安路に隷属)
  • 州3:建水州(下。本路の南にあり交趾に近接し雲南の極辺、故建水城に治す、唐の元和年間蒙氏が築いた城で古くは步頭また巴甸と称した。毎年秋夏溪水が漲溢し海のようで夷は海を惠アイと呼び大なるものを建水と漢語で言う。趙・楊・李・段の諸姓を歴てもみな旧名を踏襲、些麽徒蛮が居り内附後千戸を立て阿僰萬戸に隷属、至元13年建水州に改め臨安路に隷属)/石平州(下。路の西南にあり阿僰蛮が拠り石坪を得て聚まり居邑を作り石坪と名付けた。至元7年邑を州に改め臨安路に隷属)/寜州(下。本路の東にあり唐は黎州を置くが天寶末蛮に沒し浪曠と号す(夷語で旱龍の意)、步雄部蛮の些麽徒がこれに拠り後に爨蛮酋阿幾が浪曠を寜酋豆圭に割いて与える。元憲宗4年寜酋が内附し至元13年寜州に改め臨安路に隷属。もと通海・嶍峨・西沙の3県を領した、西沙は州の東にあり寜部蛮が世居しその裔孫西沙がここに城を築き西沙籠と名付ける、憲宗4年その酋普提が内附しこの城に居り萬戸となり至元13年西沙県を立て26年寜州に隷属させ至治2年州に併合。県2を管轄:通海〈下、倚郭。元初通海千戸を立て善闡萬戸に隷属、至元13年通海県に改め寜海府に隷属、27年府を廃し臨安路に直隷、今寜州に割き隷属〉・嶍峨〈下。県は河西県の西にあり山谷を控扼し北は滇池に接する、また滇国に属し昔嶍猊蛮が居り後に阿僰酋がこれを逐いその地に拠り、その孫阿次に至り内附しその部に千戸を立て至元13年州に改め邛州・平甸の2県を領するが26年県に降し2県を郷に併合し臨安路に隷属、今寜州に割き隷属〉)
  • 廣西路(下):東爨烏蛮彌鹿等部の居住地、唐は覊縻州として黔州都督府に隷属、後に師宗・彌勒の2部が浸盛し蒙氏・段氏も制することができなかった。元憲宗7年2部が内附し落蒙萬戸に隷属、至元12年2部を籍して軍とし廣西路を立て18年また民に復す。州2を管轄。
  • 師宗州(下。路の東南にあり昔爨蛮が獠僰等を逐い居り、後に師宗が匿弄甸に拠り師宗部と名付けた。至元12年千戸を立て18年また民に復し27年州に改める)
  • 彌勒州(下。路の南にあり昔些麽徒蛮の裔彌勒が郭甸巴甸部籠を得て居り、その部を彌勒と名付けた。至元12年千戸となり18年また民に復し27年州に改める)
  • 元江路(下):古の西南夷地、今の元江は梁州の西南、また黒水の西南にある。阿僰諸部蛮が昔からこれに拠り憲宗4年内附し7年また叛き諸部を率い築城して命に抗った、至元13年遥かに元江府を立て羈縻とし25年雲南王に命じこれを討平し羅槃・馬籠・步日・思麽羅丑・羅陀・步騰・步竭・台威・台陽・設栖・你陀の12部を割いて威逺に元江路を立てる。
  • 步日部(本路の西にあり蒙氏がこの甸に置き白蛮を徙してこれを鎮め步日瞼と名付けた)
  • 馬籠步(馬籠山により寨を立てる、本路の北にあり居住する蛮は阿僰、元初千戸を立て寜州萬戸に属し至元13年元江萬戸に属を改め25年元江路に属す)
  • 大理金齒等處宣慰司都元帥府
  • 大理路軍民總管府(上):本は漢の楪榆県の地、唐は昆明の梇棟州に姚州都督府を置き楪榆洱河蛮を治し後に蒙舎詔皮羅閤が河蛮を逐い太和城を取り、閤羅鳳に至り大蒙国と号す、雲南は先に六詔があったがここに至り朝廷に請い合わせて一とすることを従わせた。蒙舎はその南にあるため南詔と称し治を太和城に徙し異牟尋に至りまた喜郡史城に遷り、また羊苴乖城に徙居し今の府治すなわちこれ、大禮国と号を改める。後に鄭・趙・楊の3氏が互いに簒奪し石晉の時段思平に至り大理国と号を改める。元憲宗3年収附し6年上下2萬戸を立て至元7年2萬戸を大理路に併合(点蒼山が大理城西にあり周廣400里、雲南の形勝要害の地、城中に五花樓があり唐の大中10年南詔王豐祐が建てたもの、楼の方は5里、高さ100尺、上に万人を容れることができ世祖が大理を征した際兵をこの楼の前に駐め至元3年金を賜り修復した)。司1・県1・府2・州5(府はさらに1県、州はさらに2県を領す)を管轄。
  • 録事司(憲宗7年中千戸を立て大理萬戸に属し至元11年千戸を廃し録事司を立て12年理州に昇格、21年州を廃しまた録事司に復す)
  • 県1:太和(倚郭。憲宗7年城内外に上中下3千戸を立て至元26年中千戸に録事司を立て上下2千戸を県に立てる)
  • 府2:永昌府(唐の時蒙氏がその地に拠り段氏・高氏を経てみな永昌府とする。元憲宗7年永昌の永平を分け千戸を立て至元11年永昌州を立て15年府に昇格し大理路に隷属。県1を管轄:永平〈下。府の東、鹿滄江の東にあり漢の博平県、唐の蒙氏は勝郷郡と改め永昌に属す、至元11年永平県に改め永昌府に隷属〉)/騰衝府(永昌の西にあり越睒地、唐は覊縻郡を置き蒙氏の9世孫異牟尋が越睒を取り諸蛮を逐いその地を有し軟化府とする、後に白蛮がこれに徙居し騰衝府と改める。元憲宗3年府酋高救が内附し至元11年藤越州に改めまた藤越県を立て14年騰衝府に改め25年州県を廃し府のみ存す。永昌・騰衝2府の軍民屯田共22,105双)
  • 州5:鄧川州(下。本路の北にあり夷の6詔の邆睒はその一。唐は邆川州を置き大釐に治す、蒙氏がこれを襲い有し後に德原城と改め大理に隷属し段氏もこれを踏襲。元憲宗3年内附し7年德原千戸を立て大理上萬戸に隷属、至元11年德原城を鄧川州に改める。県1を管轄:浪穹〈下。もとの名は彌茨、浪穹詔の居住地、唐初その王鐸羅望が南詔と戦い不勝で劔川に保ち浪劔と改称、貞元中南詔がこれを破り浪穹・施浪・鄧睒の三浪を合わせて浪穹州とする。元憲宗7年内附し浪穹千戸を立て大理上萬戸に隷属、至元11年県に降し鄧川州に隷属〉)/蒙化州(下。本蒙舎城、唐は陽𤓰州を置き天寶年間鳳伽異が州刺史となり段氏は開南県とする。元憲宗7年蒙舎に千戸を立て大理上萬戸に属し至元11年蒙化府を立て14年路に昇格し20年州に降しまた大理路に隷属)/趙州(下。昔羅落蛮の居住地、蒙氏が国を立て10瞼を置きその一が趙州瞼、夷語で瞼は州の意、皮羅閤が趙郡を置き閤羅鳳が州に改め段氏は天水郡と改める。憲宗7年趙瞼千戸を立て大理下萬戸に隷属、至元11年州に改めまた白崖瞼に建寧県を立て本州に隷属、すなわち古の勃弄地。25年県を廃し州に併合し大理路に隷属)/姚州(下。唐は梇棟川に姚州都督府を置くが天寶年間閤羅鳳が叛き姚州を取り吐蕃に附し段氏の末まで姚州とする。元憲宗3年内附し7年統矢千戸・大姚堡千戸を立て至元12年統矢を廃し姚州を立て大理路に隷属。県1を管轄:大姚〈下。唐は西濮州を置き後に髳州と改め南は姚州に接し4県を統べその一が青蛉、すなわちこの地、夷名は大姚堡で梇棟川と相接す。元憲宗7年千戸を立て大理下萬戸に隷属、至元11年千戸を廃し大姚県を立て姚州に隷属〉)/雲南州(下。唐は漢の雲南県を郡として置き蒙氏から段氏まで並んで雲南州とする。元憲宗7年千戸を立て大理下萬戸に隷属、至元11年雲南州を立てる)
  • 蒙憐路軍民府(至元27年雲南行省の請に従い蒙憐甸を蒙憐路軍民總管府とし蒙萊甸を蒙萊路軍民總管府とする、その他は欠)
  • 蒙萊路軍民府(欠)
  • 金齒等處宣撫司:その地は大理西南の蘭滄江界にあり東は緬地と接し西の土蛮は凡そ8種、曰く金歯・白夷・僰・峨昌・驃・繲・渠羅・比蘇。案ずるに唐史に茫施蛮はもと闗南種で永昌の南にあり楼居し城郭がなく或いは漆歯或いは金歯、俗に金歯蛮と呼ぶ。漢が西南夷を開いてから未だ中国と通じなかったが唐の南詔蒙氏が興り異牟尋が群蛮を破りその人を尽く虜え南方を実たし東北はその地を取り、南は青石山緬界に至りみな大理と段氏の時代に属した。以後白夷諸蛮が故地を復し、その後金歯諸蛮が浸盛。元憲宗4年大理を平定し続いて白夷等蛮を征し、中統初め金歯白夷の諸酋がおのおの子弟を遣わし朝貢、2年安撫司を立てこれを統べ、至元8年金歯白夷を東西2路に分け安撫使を置き12年西路を建寜路、東路を鎮康路に改め、15年安撫を宣撫に改め6路總管府を立て23年両路宣撫司を廃止し大理金歯等處宣撫司に併合。
  • 柔逺路(大理の西、永昌の南にあり、その地は潞江・普坪瞼・申瞼僰寨・烏摩坪と呼ぶ、僰蛮はすなわち『通典』のいわゆる黒爨。中統初め僰酋阿八思が入朝、至元13年茫施・鎮康・鎮西・平緬・麓川とともに路に昇格し宣撫司に隷属)
  • 茫施路(柔逺路の南、瀘江の西にあり、その地は怒謀・大枯睒・小枯睒と呼ぶ、すなわち唐史のいわゆる茫施蛮。中統初め内附し至元13年路に昇格し宣撫司に隷属)
  • 鎮康路(柔逺路の南、蘭江の西にあり、その地は石睒と呼びまた黒僰の居住地。中統初め内附し至元13年路に昇格し宣撫司に隷属)
  • 鎮西路(柔逺路の正西、東は麓川を隔てる、その地は于頼睒・渠瀾睒と呼び白夷蛮が居住。中統初め内附し至元13年路に昇格し宣撫司に隷属)
  • 平緬路(北は柔逺路に近く、その地は驃睒・羅必四庄・小沙摩弄・驃睒頭と呼び白夷が居住。中統初め内附し至元13年路に昇格し宣撫司に隷属)
  • 麓川路(茫施路の東にあり、その地は大布茫・睒頭附賽・睒中彈吉・睒尾福禄培と呼びみな白夷の居住地。中統初め内附し至元13年路に昇格し宣撫司に隷属)
  • 南睒(鎮西路の西北にあり、その地に阿賽睒・午真睒があり白夷・峨昌が居住。元初内附し至元15年宣撫司に隷属。金歯6路1睒は歳賦の金銀にそれぞれ差がある)
  • 烏撒烏蒙宣慰司:本部の巴的甸にあり烏撒とは蛮の名。その部は中慶東北750里、旧名は巴凡兀姑、今は巴的甸という。昔から烏雑蛮が居り今所轄の部は6つ、曰く烏撒部・阿頭部・易溪部・易娘部・烏蒙部・閟畔部、その東西にまた芒布・阿晟の2部がある。後に烏蛮の裔折怒が強大となりその地を尽く得て遠祖烏撒の名を部名とする。憲宗が大理を征しても度々招いても降らなかったが至元10年はじめて帰附し13年烏撒路を立て15年軍民總管府とし21年軍民宣撫司に改め24年烏撒烏蛮宣慰司に昇格
  • 木連路軍民府(以下欠)
  • 蒙光路軍民府
  • 木邦路軍民府
  • 孟定路軍民府
  • 謀粘路軍民府
  • 南甸軍民府
  • 六難路甸軍民府
  • 陋麻和管民官
  • 雲龍甸軍民官
  • 縹甸軍民官
  • 二十四寨達嚕噶齊
  • 孟隆路軍民府
  • 本朶路軍民總管府(至元30年金歯木朶甸の戸口が増殖したため下路總管府を立て、その長には両珠虎符を給した)
  • 金齒孟定各甸軍民官
  • 孟愛等甸軍民府(至元21年金歯新附の孟愛甸の酋長がその子を遣わし朝に来て方物を進めたのでその地に軍民總管府を立てる)
  • 蒙兀路
  • 通西軍民總管府(大徳元年蒙陽甸の酋領緬吉が款を納め弟のアブラ等を遣わし闕に赴かせ方物を進めさせ、また毎年銀千両を貢し郡県驛傳を置くことを請い、通西軍民府を立てる)
  • 木來軍民府(至元29年雲南省が「新附の金歯はまさにブルトゥ・モンゴルデセ出征軍馬の要衝にあたりその芻糧を資する、木來路を立てたい」と言上し中書省が奏し散府を置くこととし本布を達嚕噶齊とし土人のマリエ知府事とする)