元史卷二十八 本紀第二十八 英宗二

至治二年から三年(1322–1323年)、英宗治世の後半と最期を記す。権臣特們徳爾(テムデル)の死後、右丞相拝珠(バイジュ)を重用して法典『大元通制』を編纂・頒行させた。しかし至治三年八月、特克実(テクシ)らが謀反を起こし、拝珠とともに南坡の行幄で英宗を弑した。享年21。泰定元年に廟号英宗と追贈された。

年表(9件)

至治二年(1322年)

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正月己巳朔、安南・占城がそれぞれ使者を遣わし来貢した。壬申、保定・雄州が饑え賑した。庚午、太廟を廣めた。甲戌、漢人が兵器を執って出猟し武芸を習うことを禁じた。丁丑、太陰が昴を犯した。太廟に親祀し初めて鹵簿を陳ね、導駕の耆老に幣帛を賜った。戊寅、有司に孔氏子孫の貧乏な者を存恤させることを敕した。己卯、山東・保定・河南・汴梁・帰徳・襄陽・汝寧などの地の饑えに米三十九万五千石を発して賑した。庚辰、太白が建星を犯した。公主の喇特納巴拉が下嫁したため鈔五十万貫を賜ることを詔した。辛巳、太白が建星を犯した。台憲の用人は資格に拘らないことを敕した。儀封県で河が溢れ稼を傷めたため賑した。癸未、徽政院使の羅源を耽羅に流した。柳林に行殿を建てた。塔斉爾を蘭国公に封じた。辛卯、太陰が心を犯した。癸巳、西僧の羅卜蔵を司徒とした。漷州が饑え米十万石を糶り賑した。甲午、熒惑が房を犯した。丁酉、太白が牛を犯した。二月己亥朔、熒惑が鍵閉星を犯した。庚子、左右欽察衛親軍都指揮使司を置き拝珠にこれを統べさせた。上都歇山殿及び帝師寺の役を罷めた。辛丑、克実の父祖の碑を賜った。癸卯、江南行台御史大夫の竒徹を中書平章政事、江浙省参政の王居仁を中書参知政事とし、薛処敬を罷め河南行省左丞とした。丙午、熒惑が罰星を犯した。戊申、社稷を祭った。順徳路九県の水旱を賑した。太陰が井を犯した。庚戌、熒惑が東咸を犯した。辛亥、太陰が酒旗軒轅を犯した。壬子、太白が塁壁陣を犯した。諸王諳達布哈に鈔七万五千貫を賜った。綽克台図古勒の死事により鈔三万五千貫を賜った。諸王竒卜が使者を遣わし文豹を進めた。河間路が饑え醸酒を禁じた。癸丑、太陰が明堂を犯した。甲寅、太廟の役軍で流杯池行殿を造らせた。広海の郡邑の官の曠員に、願って往任する者は秩を二等昇格させることを敕した。乙卯、遼陽行省平章政事の瑪魯を中書平章政事とした。西僧の伊実拉黙特蔵布が疾んだため大辟囚一人・笞罪二十人を釈すことを詔した。戊午、真定などの路の饑えを賑した。己未、太陰が天江を犯した。馬を括り宗仁衛に賜った。壬戌、太白が塁壁陣を犯した。諸王竒卜が使者を遣わし海東青鶻を進めた。癸亥、遼陽などの路が饑え、その租を免除しなお一月分の糧を賑した。甲子、恩州が水害で民が饑疫となり賑した。三月己巳、中書省臣が「国学は廃弛しているので、中書平章政事の亷恂・参議中書事の張養浩・都事の富珠哩翀に令じてこれを董めさせ、外郡の学校もなお御史台・翰林院・国子監に同議して興挙させるべき」と言い、従った。四宿衛の興聖宮及び諸王部に南人を用いないことを敕した。烏魯斯が父母を告訐したため斬った。辛未、天鵝の捕獲を禁じ違う者はその家を籍した。壬申、張珪の司徒を復した。臨安路河西の諸県が饑え賑した。癸酉、河南・両淮の諸郡が饑え醸酒を禁じた。丙子、延安路が饑え一月分の糧を賑した。京師の諸営繕役卒四万余人を罷めた。河間・河南・陝西の十二郡が春旱秋霖で民が饑え、その租の半分を免除した。戊寅、都城を修めた。庚辰、江浙の僧寺の田は宋の故有の永業田及び世祖が賜ったものを除き余をことごとく税することを敕した。癸未、遼陽の女直・漢軍などの戸の饑えを賑した。乙酉、濮州の水災を賑した。丙戌、親祀の礼が成ったことにより祭に与った者に幣を賜り内外の官吏を普く一資減じた。万戸の哈喇諾海が私粟を以て軍を賑したため銀幣を賜りなおその直を酬い行通政院の印を給した。潜邸の四宿衛士に鈔をそれぞれ賜った。市舶提挙司を泉州・慶元・広東三路に再置した。子女・金銀・糸綿の下番を禁じた。丁亥、鳳翔の道士王道明が妖言の罪により伏誅した。己丑、暈が日を貫くことが連環のようであった。諸王鄂羅木烏遜に銀印を賜った。有司に穆呼哩の祠を東平に建てさせ、なお碑を樹てた。国用が匱竭したことにより諸王及び皇后逹爾瑪実哩などの歳賜を停めた。庚寅、曹州・滑州が饑え賑した。将作院に冕旒を更製させることを命じた。辛卯、御史を遣わし録囚させた。甘州巴勒噶遜駅を置いた。監察御史の何守謙が贓の罪に坐し杖免された。壬辰、上都の十一駅を賑した。宗仁衛の蒙古子女に衣糧を給した。諸王托里特穆爾に鈔五万貫を賜った。甲午、遼陽哈勒巴の民が饑え賑した。丁酉、柳林に幸した。駙馬許納の子の蘇克が「臣の父は謀叛し、臣の母は私に人に従いました」と訴えると、帝は「人の子が親に事えるには隠すことがあっても犯すことはない。今過ちがあって諫めず、かえって告訐するとは」と述べこれを誅すことを命じた。奉元路の饑えを賑した。夏四月戊戌朔、車駕が上都に幸した。己亥、嶺北の蒙古軍が饑え糧を給しその部に還らせた。庚子、彰徳路の饑えを賑した。壬寅、真州の火災、徽州の饑えをともに賑した。辛亥、涇州で雨雹があり被災者の租を免除した。壬子、公主の実哩達喇が薨じ鈔五万貫を賜った。甲寅、南陽府西穣などの屯が風雹、洪澤・芍陂屯田が去年旱蝗となったため、ともにその租を免除した。丙辰、恩州が饑え醸酒を禁じた。乙丑、中書省臣が賞賚を節し民力を紓めることを請うと、帝は「朕は思うに出ずるところは入るところの倍である。出納の際、卿らは慎むべきであり朕もその用を撙節すべきだ」と述べた。丙寅、辺卒に鈔帛を賜った。東昌・覇州の饑民、松江府上海県の水害・旱害をともに賑した。五月己巳、公主の蘇喀巴拉を趙国大長公主とした。徳安府の被災民の租を免除した。滹沱河の堤を修めた。彰徳府が饑え醸酒を禁じた。庚午、泰符・臨邑二県の民が謀逆し、その首の王驢兒が伏誅しその余は杖流された。睢・許二州が去年水旱でその租を免除した。辛未、駙馬の托克托が卒し鈔五万貫を賜った。丙子、熒惑が退いて東咸を犯した。庚辰、固安の饑えを賑した。営を永平に置き蒙古の子女を収養させた。使者を遣わし四方に諭し匿す者を罪した。癸未、御史大夫の托克托を江南行台御史大夫とした。宗仁蒙古侍御親軍都指揮使司を置いた。甲申、車駕が五台山に幸した。夏津・永清二県の饑えを賑した。済爾噶朗を御史大夫とした。乙酉、拝珠に宗仁蒙古侍衛親軍都指揮使司事を領させ三珠虎符を佩ばせた。京師が饑え粟二十万石を発して賑糶した。雲南行省平章の達実特穆爾・多爾済が贓の罪に坐し杖免された。戊子、集衆祈神を禁じた。庚寅、河南・陝西・河間・保定・彰徳などの路の饑えに粟を発して賑し、なお常賦の半分を免除した。各衛の漢軍二千を調し宗仁衛屯田卒に充てた。五台山で禜星した。甲午、鞏昌・階州の饑えを賑した。丙申、呉全節を玄教大宗師とし上卿に進めた。閏月戊戌、諸葛忠武侯を威烈忠武顕霊仁済王に封じた。辛丑、万戸の李英が良民を奴とし擅にその面に文したことにより罪に坐した。癸卯、白蓮仏事を禁じた。睢陽県亳社屯が大水で饑え賑した。諸王阿穆爾清托克が図埒訥王の衛士を擅に徙した罪に坐しともに海南に杖流された。甲辰、御史台臣が職に称わない監察御史を黜け懲勧を示すことを請い、従った。丙午、嶺北の戍卒が貧乏となり鈔三千二百五十万貫・帛五十万疋を賜った。戊申、奉元路郿県及び成州が饑え賑した。特們徳爾の子の同知枢密院事巴勒丹を知枢密院事とした。己酉、額布根巴図爾が辺を戍り功があり金鈔を賜った。壬子、紫檀殿を作った。乙卯、淮安路が去歳大水、遼陽路が霜で禾を殺し、南康路が旱害となったため、ともにその租を免除した。壬戌、安豊属県が霖雨で稼を傷めその租を免除した。興元褒城県が饑え賑した。甲子、真定・山東の諸路が饑えその河泊の禁を弛めた。丙寅、辰州沅陵県の洞蛮が寇をなしたため兵を遣わし捕らえさせた。既に除された官で赴任しない者はその官を奪うことを敕した。公主蘇喀巴拉の乳母を順国夫人に封じた。六月丁卯朔、車駕が五台山に幸した。扈従の宿衛に民の禾を践むことを禁じた。中慶・大理二路の推官各一員を置いた。戊辰、揚州属県が旱害でその租を免除した。己巳、広元路の綿谷・昭化二県が饑え官が米を市して賑した。壬申、熒惑が心を犯した。癸酉、日者が天象を妄談することを申し禁じた。甲戌、新平・上蔡二県が水害でその租を免除した。丙子、渾河の堤を修めた。壬午、辰州で江水が溢れ民の廬舎を壊した。丁亥、奉元属県が水害、淮安属県が旱害となりともにその租を免除した。庚寅、思州が風雹、建徳路が水害となりみな賑した。秋七月戊戌、淮安路が水害で民が饑え、その租を免除した。己亥、熒惑が天江を犯した。丁未、拝珠に平江の田一万畆を賜った。壬子、親王色徹図を遣わし北辺の兵を総べさせ、金二百五十両・銀二千五百両・鈔五十万貫を賜った。戊午、太陰が井を宿鉞星で犯した。車駕が応州に次り、曲赦により金城県の囚徒を赦した。庚申、靖州を路に昇格させた。辛酉、渾源州に次った。中書左丞の張思明が罪に坐し杖免されその家を籍した。甲子、京師の諸役軍匠の病者千人を録しそれぞれ鈔を賜り還らせた。南康路が大水となった。廬州六安県で大雨があり水が暴かに至り平地の深さ数尺に及び民が饑えたため、有司に一月分の糧を賑させることを命じた。八月戊辰、社稷を祭った。己巳、道州寧遠県の民の符翼軫が乱をなしたため有司がこれを討って擒えた。壬申、蔚州の民が嘉禾を献じた。甲戌、奉聖州に次り宗仁衛の営を築いた。廬州の流民で復業する者に行糧を給した。戊寅、蚕麦の図を鹿頂殿の壁に画き時に応じて観れば民事を知ることができると詔した。己卯、廬州路六安・舒城県が水害となり賑した。庚辰、寿安山寺の役卒を七千人増した。庚寅、特們徳爾が卒し直を給しその葬地を市わせることを命じた。甲午、瑞州高安県が饑え賑した。九月戊戌、大寧路の碩逹勒逹などの駅が水害で禾を傷め賑した。蒙古の子女の貧乏な者に鈔七百五十万貫を給した。戊申、寿安山の造寺の役軍匠で死んだ者にそれぞれ鈔百五十貫を給した。庚戌、江南の妻妾の典雇を申し禁じた。辛亥、寿安山寺に幸し監役官にそれぞれ鈔五千貫を賜った。甲寅、淮東泰興などの県の饑えを賑した。丙辰、太皇太后が崩じた。戊午、蒙古の子女に鈔百五十万貫を賜った。己未、太陰が明堂を犯した。庚申、今年の冬祀南郊を停めることを敕した。癸亥、地震があった。甲子、臨安河西県が春夏に雨が降らず種が土に入らず居民が流散したため、有司に賑給させ復業させることを命じた。層楼を涿州鹿頂殿の西に作った。丙寅、西僧の巴勒済特が疾んだため鈔五万貫を賜った。冬十月丁卯、太史院が明年の土功の興作を禁じることを請い、従った。戊辰、太廟に享した。国哀を以て迎香から楽を去り、修廟の工役が未だ畢わらないため陳宮県を妨げ登歌だけを用いた。丙子、押済思国が使者を遣わし方物を貢した。江南行台大夫の托克托が請告して未だ旨を得ないまま輙に職を去った罪に坐し杖して雲南に謫された。庚辰から辛巳、太陰が井を犯した。甲申、太祖神御殿を興教寺に建てた。己丑、熒惑が塁壁陣を犯した。拝珠を中書右丞相とした。南恩州の賊の潭庚生らが降った。十一月甲午朔、日食があった。己亥、右丞相を立てたことにより天下に詔し、流民で復業する者は差税三年を免除し、站戸で貧乏で妻子を鬻売した者は官がこれを贖い還した。凡そ差役・造作は先ず商賈末技の富実な家に科して農力を優ずることとした。陝西の明年の差税十分の三を免除し、各処の官佃田は明年の租十分の二を免除し、江淮創科の包銀を全免した。御史の李端が「近ごろ京師の地震・日月の薄蝕はみな臣下の失職により致すものです」と言うと、帝は自責して「これは朕の思慮が及ばずにこう至らせたのだ」と述べ、群臣にもまた修飭し天戒を謹むべきことを敕した。世祖以後の冗置官を罷めた。江南の僧で妻ある者を括り民とした。安南国が使者を遣わし物を貢し、回賜として金四百五十両・金幣九・帛これに同じくした。癸卯、地震があった。甲辰、太白が塁壁陣を犯した。徽政院を罷めた。乙巳、熒惑が塁壁陣を犯した。丙午、竜船三艘を造った。戊申、太陰が井を掩った。岷州が旱疫のため賑した。北辺を戍る万戸千戸などの官に金帯を賜った。御史の李端が「朝廷は起居注を設けているとはいえ、録されるところはみな臣下が聞奏する事の細目に過ぎない。工の言動もことごとく書して史館に付すべきです。世祖以来定めた制度は令として著すべきで、吏に奸をなさせず治獄する者にも遵守するところを持たせるべきです」と言い、ともに従った。乙卯、西僧の果爾卓斡を遣わし帝師を迎えさせた。宣徳府宣徳県の地がしばしば震い、被災者に糧鈔を賑した。己未、太陰が東咸を犯した。托克托和斯の入流官を定め印と俸を給し、八番軍民安撫司を置き長官所二十有八を州県に改めた。庚申、太陰が天江を犯した。辛酉、熒惑が歳星を犯した。真人の蔡道泰が殺人の罪により伏誅した。刑部尚書の布達実哩がその金を受けた罪、范徳郁が詭随した罪にともに坐し杖免された。平江路が水害で官民田四万九千六百三十頃を損ないその租を免除した。十二月甲子朔、南庫建昌州が大水・山崩で死者四十七人となり民が饑え賑した。乙丑、太白・歳星・熒惑三星が室に聚まった。太白が塁壁陣を犯した。丁卯、中書政事の瑪魯を罷め大司農とし、亷恂を罷め集賢大学士とし、集賢大学士の張珪を中書平章政事とした。戊辰、道教を掌る張嗣成・呉全節・藍道元にそれぞれ三たび制命・銀印を授けたことにより、その二をを奪うことを敕した。壬申、河西に屯戍する回回人戸の銀税を免除した。甲戌、両江来安路総管の岑世興が乱をなし兵を遣わし討伐させた。特們徳爾の子の宣政院使巴爾斯済蘇が劉䕫の冒献した田地を受けた罪に坐し伏誅しその家を籍した。乙亥、太陰が井を掩った。丙子、鎮南王図卜布哈の戍兵を増した。戊寅、太白が歳星を犯した。庚辰、葛蛮安撫司副の龍仁貴が乱をなしたため湖広行省に督兵させ捕らえさせた。知枢密院事の竒徹台を宣政院使、参知政事の蘇蘇を中書左丞、宗仁侍衛親軍都指揮使の瑪喇勒を参知政事とした。癸未、紹興路柔遠州の洞蛮把者が寇をなしたため兵を遣わし捕らえさせた。御史大夫の済爾噶朗を知枢密院事とし、色徹図を武寧王に封じ金印を授けた。地震・日食を以て中書省・枢密院・御史台・翰林集賢院に国家の利害の事を集議し聞かせることを命じた。両都の営繕は旧のままとし、余は議のとおりとすることを敕した。河南・陝西などの地の酒禁を弛めた。近侍が没入した銭物を奏取することを禁じた。乙酉、杭州で火災があり賑した。丙戌、太皇太后の諡を昭献元聖と定め、太常礼儀院使の托廸を遣わし諡議を太廟に告げさせた。寧昌府を下路に昇格させ一県を増置し、雲南の西沙県を寧州に併合した。淮安忠武王巴延の祠に祭田二十頃を賜った。己丑、熒惑が外屏を犯した。太陰が建星を犯した。辛卯、蒙古の流民に糧鈔を給しもとの部に還らせた。張珪が足疾で朝賀を免ぜられた。西僧の灌頂が疾んで囚を釈すことを請うと、帝は「囚を釈して福を祈るのは、どうして師のために惜しむことがあろうか。朕が思うに、悪人をしばしば赦せばかえって善良を害する。何の福があろうか」と述べた。宣徽院臣が「世祖の時、鴻吉哩は歳ごとに尚食の羊二千を輸し、成宗の時は三千に増した。今五千に増すべき」と請うと、帝は許さず「天下の民はみな朕の有する所である。もし不足があれば朕は当然これを済うべきだ。もし賦を重くすれば百姓は必ず困窮に至る。国にも何の益があろうか」と述べ、世祖の旧制に遵うことを命じた。徽州・廬州・済南・真定・河間・大名・帰徳・汝寧・鞏昌の諸地及び河南芍陂屯田が水害、大同・衛輝・江陵の属県及び豊贍署・大恵屯が風害、河南及び雲南烏蒙などの地の屯田が旱害、汴梁・順徳・河間・保定・慶元・済寧・濮州・益都の諸属県及び諸衛屯田が蝗害となった。

至治三年(1323年)(英宗の弑逆)

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春正月癸巳朔、暹国及び八番洞蛮の酋長がそれぞれ使者を遣わし来貢した。曹州禹城県が去秋霖雨で稼を害されたため、県人の邢著程が粟を出して饑民を賑し、有司にその門を旌させることを命じた。乙未、太廟に享した。己亥、思明州で盗が起こり湖広行省に督兵させ捕らえさせた。庚子、刑部尚書の烏瑪喇が贓の罪に坐し杖免された。壬寅、太僕寺に牝馬百匹を増給させ、世祖・仁宗の御容殿の祭祀の馬湩に供させることを命じた。和林・敖拉図などの駅戸が貧乏となり鈔を給して賑した。行中書省平章政事に再び軍政を総べさせ、軍官の罪の重い者は聞かせ、軽い者はその場で決した。上都・雲州・興和・宣徳・蔚州・奉聖州及び鶏鳴山・房山・黄蘆・三义の諸金銀冶を罷め、民に採錬させ十分の三を官に輸させることを聴した。前枢密院副使の呉元珪・王約を集賢大学士、翰林侍講学士の韓従益を昭文館大学士とし、ともに中書省事を商議させた。拝珠が「前集賢侍講学士の趙居信・直学士の呉澄はみな徳ある老儒であり、徴用すべきです」と言うと、帝は喜んで「卿の言はまさに朕の心に副う。さらに山林隠逸の士を捜訪すべきだ」と述べ、ついに居信を翰林学士承旨、澄を学士とした。上都留守司判官二員を増置し漢人にこれを担わせ専ら刑名を掌らせた。仁宗中宮位提挙司二を置き秩正五品とし承徽寺に隷属させた。太陰が鉞星を犯し、また井を犯した。癸卯、太陰が井を犯した。甲辰、鎮西武靖王部が饑え賑した。諸王呼喇珠を遣わし雲南に鎮させ鈔一万五千貫を賜った。辛亥、特克実に台綱を振挙することを申し命じた。壬子、諸王駅を京師に建てた。回回砲手万戸を遣わし汝寧新蔡に赴かせ、世祖の旧制に遵い砲法を教習させた。静江・邕・柳の諸郡の獠が寇をなしたため湖広行省に督兵させ捕らえさせた。甲寅、宗仁衛の蒙古子女の額足万戸を罷め収めることを命じた。乙卯、征東摩済地沃済戸が貂鼠・水獺・海狗皮を以て来献し、三歳存恤することを詔した。丙辰、泉州の民の留応総が乱をなしたため浙江行省に兵を遣わし捕らえさせることを命じた。丁巳、封贈官の等秩を定めた。辛酉、故に子孫を殺し平民を誣いる者を禁じた。兵部尚書一員を増置した。四川行省平章政事の趙世延がその弟のために不法を訟え獄に繋がれ対を待ったが、その弟が逃げ去ったため、これを出すことを詔し、なお令として著し、逃げた者が百日出なければ対を待つ者を釈すこととした。枢密副使の完顔納丹・侍御史の曹伯啓・伊克扎爾古齊の布延・集賢学士の竒徹・翰林直学士の曹元用に仁宗の時に纂集した累朝格例を聴読させることを命じた。常調官外の不次銓用の者は、ただ職を陞するだけで階を陞さないことを敕した。二月癸亥朔、上都華厳寺・帕克斯巴帝師寺及び拝珠第を役軍六千二百人で作った。軍官の襲職を定め、嫡長子孫が幼い場合は諸兄弟姪にこれを摂させ、受けた制敕書は権かに襲がせ争訟を息ませることとした。この夜熒惑・太白・填星三星が胃に聚まった。丙寅、翰林国史院が仁宗実録を進めた。嘉琿らを遣わし西番に往かせ初附の民を撫し畜牧を徴し郵伝を治めさせた。戊辰、社稷を祭った。天寿節に賔・丹・瓜哇などの国が使者を遣わし来貢した。己巳、広恵河牐十有九所を修め野狐・桑乾道を治めた。癸酉、柳林に畋し拝珠を顧みて「近ごろ地道が寧を失い風雨が時ならぬのは、朕が大宝を纂承したことに欠けたところがあるからではないか」と述べると、「地震は古よりあることです。陛下がお自ら責められるのは固よりよろしいが、良に臣らが失職して爕理できないためです」と答えた。帝は「朕は在位三載、兆姓万物にどうして乖戻の事がないだろうか。卿らは百官と議し民を便にし物を利するところがあれば朕は即座にこれを行う」と述べた。鎮遠王額布根の王傅官属を置いた。播州の黄平府長官所一を罷めその民を徙し黄平に隷属させた。この夜太白が昴を犯した。辛巳、五輅を造った。司徒の劉䕫・同僉宣政院事の嚢嘉特が妄りに地土を献じ官銭を冒取した罪に坐し伏誅した。格例が成定し凡そ二千五百三十九条、内断例七百十七条、格千百五十一、詔赦九十四、令類五百七十七で、名付けて大元通制といい天下に頒行した。この夜太陰が東咸を犯した。癸未、北辺の軍を鈔二十五万錠・糧二万石で賑した。宣徽院に蒙古子男四百を選び宿衛に入れさせることを命じた。徽政院・総管府三都総官府を罷め有司に隷属させ、斉哩克昆及び人匠総管府を陝西行中書省に隷属させた。開成路を降して州とした。丙戌、京師で土雨が降り饑え、粟二万石を発して賑糶した。五輅の旗を造った。丁亥、金書蔵経二部を敕し拝珠らにこれを総べさせた。戊子、鷹師の布哈を趙国公に封じた。辛卯、太子賓客の巴図が貧に亷ることにより鈔十万貫を賜った。諸王諤斯伯が使者を遣わし来朝した。青海宣慰司及び万戸府を罷め屯田総管府を改立した。諸王寄卜が葡萄酒を貢した。海漕糧が直沽に至り使者を遣わし海神天妃を祀った。三月壬辰朔、車駕が上都に幸した。諸王納丹珊延に鈔二百五十万貫を賜った。諸王托歓の歳賜を復給した。丁酉、平江路嘉定州が饑え粟六万石を発して賑した。戊戌、安豊芍陂屯田の女直戸が饑え一月分の糧を賑した。庚子、崇明の諸州が饑え米一万八千三百石を発して賑した。甲辰、台州路黄巌州が饑え両月分の糧を賑した。丁未、西番賛布凌の諸族が叛したため鎮西武靖王吹巴勒らに兵を発して討伐させることを敕した。戊申、太皇太后を順宗廟室に袝した。太尉を摂する中書右丞相の拝珠を遣わし玉冊玉宝を奉じ尊諡を昭献元聖皇后と上らせた。辛亥、圓明王道明の乱により僧道の度牒符籙を禁じた。丙辰、医卜匠官は居喪しても職を去らせず、七十でも致仕を聴さず、子孫に蔭がなくてもその業を紹ぐ能力があれば材を量って録用することを敕した。監察御史の拝珠・嘉琿が巴爾斯済蘇の挙が当を失した罪に坐しともに黜免された。諸王和爾和部の軍駅戸が饑え賑した。夏四月壬戌朔、天下の諸司に僧を命じ経十万部を誦させることを敇した。丙寅、察汗諾爾の蒙古軍駅戸が饑え賑した。丁卯、内黄県の節婦王氏を旌した。己巳、金水河を浚った。甲戌、張珪及び右司員外郎の王士熙に国子監学を勉励させることを命じた。都功徳使の科爾羅に京師に至らせ大辟囚三十一人・杖五十七以上の者六十九人を釈させた。籠禽十万を放ち有司にその直を償わせた。己卯、助役法を行うことを詔し、使者を遣わし税籍の高下を考視させ田若干畝を出し役に応ずる人にこれを更掌させその歳入を収め役費に助けさせ、官はこれに与らないこととした。北辺の軍が饑え賑した。蒙古大千戸部が近年風雪で畜牧を斃したため鈔二百万貫を賑した。京師の万安・慶寿・聖安・普慶四寺、揚子江金山寺、五台万聖祐国寺に水陸仏事を七昼夜作らせることを敕した。丁亥、故羅羅斯宣慰使述古の妻の漂末が権かに司事を領し、その子の娑住邦を遣わし方物を来献した。戊子、南豊州の民及び鞏昌の蒙古軍が饑え賑した。五月辛卯、大理路白塩城の椎税官を置き秩正七品、中慶路の椎税官を秩従七品とした。安慶灊山県・雲南寧遠州を置いた。戊戌、太白が経天した。庚子、大風雨雹があり柳林行宮内外の大木二千七百を抜いた。辛丑、特克実を御史大夫事に署させた。壬寅、雲南行省平章政事の呼遜が贓の罪に坐し杖免された。中外に言路を開くことを詔した。慶元路嶧山県を置き尉一員を増した。安寨県を龍安駅に徙した。癸卯、太陰が房を犯した。乙巳、嶺北で米が貴くなり醸酒を禁じた。戊申、監察御史の蓋継元・宋翼が「特們徳爾は奸険貪汚である。立てられた碑を毀すべきです」と言い、従い、なおその官爵及び封贈制書を追奪した。帝は大安閣に御し太祖・世祖の遺衣がみな縑素木綿で作られ重ねて補綴されているのを見、嗟嘆すること良久しく、侍臣に「祖宗創業の艱難と服用の節倹はこの通りである。朕がどうして頃刻もこれを忘れられようか」と述べた。庚戌、太白が畢を犯した。癸丑、荊湖宣慰使の図托里烈が受賂の事が発覚し京師に召され、御史台臣がその場で鞫することを請うたが許されなかった。乙卯、勲旧の子の色埒黙・昻輝特穆爾・額森特穆爾に鈔各一万五千貫を賜った。鈔一千万貫で羊馬を市い嶺北の戍卒に人ごとに騬馬二・牝馬二・羊十五を給した。駅戸が官地を質売することを禁じた。丙辰、東安州が水害で民田千五百六十頃を壊した。戊午、真定路武邑県が雨水で稼を害された。奉元行宮の正殿が火災に遭った。上都利用監庫が火災となり帝が衛士に撲滅させ、群臣に「世皇が初めて宮室を建て今に安んじているのに、朕がこれを嗣ぎ大宝に登ってこの燬に値うのは、朕が治を図ることができないためだ」と述べた。欽察衛兵が辺を戍り功を累ねた卒があり官を以て賞することを請うと、帝は「名爵はどうして人を賞するものであろうか」と述べ鈔三千貫を賜ることを命じた。大名路魏県が霖雨、大同路鴈門屯田が旱害で麦を損ない、諸衛屯田及び永清県が水害、保定路帰信県が蝗害となった。六月、寇が寧都州を囲み、民の孫正臣が糧を出して軍に餉ったためその門を旌した。丁卯、西番賛布凌の諸冦が未平定であるため徽政使の超爾を遣わし師を督させに往かせた。戊辰、特們徳爾の父祖の碑を毀し原受の制書を追収し中外に告諭した。乳母呼図台を定襄郡夫人に贈り、その夫の阿拉を追封して定襄王とし諡を忠愍とした。壬申、将作院使の哈扎爾布哈が上を罔き利を営んだ罪に坐し杖流東裔されその家を籍した。留守司が雨害により都城の修理を請うたが、旨があり「今歳は興工すべきでない」として略完させた。癸酉、太廟の夾室を置いた。揚珠済達台吉を追贈して襄安王とした。諸王布色特穆爾が北部に統兵し別に歳賜を頒した。太常が累朝儀礼の纂修を請い、従った。癸未、填星が畢を犯した。乙酉、易・安・滄・莫・覇・祁の諸州及び諸衛屯田が水害で田六千余頃を壊した。諸王竒卜がしばしば辺を寇していたが、この時使者を遣わし来降した。帝は「朕は彼の土地人民を欲するのではない、ただ我が民が辺患に罹らず軍士が労役を免れればそれで幸いである。今既に来降したので当然その賜を厚くしこれを安んずべきだ」と述べた。秋七月辛卯朔、宣政使の竒徹台が旨を自伝し事を署したことにより、中書がこれを体制上宜しくないとして通行禁止を請い、従った。壬辰、占城国王がその弟の保佑八剌遮を遣わし表を奉じ来貢し方物を貢した。真定路の駅戸が饑え糧二千四百石を賑した。癸卯、太廟が成った。巴勒丹が贓の罪に坐し杖免された。拉塔屯田の貧民に鈔四十六万八千貫を賜り牛具を市わせた。甲辰、諸王特穆爾が雲南から還り宿衛に入り鈔二万五千貫を賜った。乙巳、左右両江の黄勝許・岑世興を招諭した。己酉、諸王呼図克特穆爾を威遠王に封じ金印を授けた。海道の歳運糧二十万石を減じた。江淮の増科糧を免除した。甲寅、馬を行宮駕車に六百五十匹市った。丙辰、永寧王布木特穆爾が不法であったため宗正府及び近侍に雑治させ、特們徳爾の家資を傅籍させた。諸王斉斉克図が入朝し印を請うたが、帝はその政績が未だ著れていないとして許さず鈔二十五万貫を賜った。御史台が旨を降して言路を開くことを請うと、帝は「言路はいつ開いていないことがあろうか。卿らの選人が未だ当を得ていないだけだ」と述べた。漷州が雨水で屯田を害した。真定州の諸路属県が蝗害、冀寧・興和・大同三路の属県が霜害、東路蒙古万戸府が饑え両月分の糧を賑した。八月癸亥、車駕が南に還り南陂に駐蹕した。この夕、御史大夫の特克実・知枢密院事の額森特穆爾・大司農の実達爾・前平章政事の斉琳特穆爾・前雲南行省平章政事の諤勒哲・特們徳爾の子で前治書侍御史の索諾木・特克実の弟の宣徽使索諾木・典瑞院使の托和斉・枢密院副使の阿薩爾・僉書枢密院事の章台・衛士の図們及び諸王の諳達布哈・博羅伊嚕布哈・竒爾布哈・烏魯斯布哈らが謀逆し、特克実が領する阿蘇衛兵を外応とし、特克実・斉琳特穆爾が丞相拝珠を殺し、ついに帝を行幄で弑した。年二十一。諸帝陵に従葬された。泰定元年二月、尊諡を睿聖文孝皇帝と上り廟号を英宗とした。四月、国語で廟号を格根皇帝と上った。英宗は性剛明で、かつて地震により膳を減じ楽を徹し正殿を避けたことがあり、近臣が觴を称えて賀すると「何を賀するのか」と問い、「朕はまさに徳を修めるのに暇がないというのに、汝は匡輔できずかえって諂うのか」と述べこれを斥け出した。拝珠が進んで「地震は臣らの失職であり、賢を求めて代えるべきです」と言うと、「多く遜るなかれ、これは朕の過ちである」と述べた。かつて群臣を戒めて「高位に居り厚禄を食む者は勉めて図報すべきだ。もし貧乏であれば朕は汝に賜うのを惜しまないが、もし不法をなせば必ず刑して赦さない」と述べた。巴爾斯済蘇が下獄した際、左右に「法は祖宗が制するところであり朕が私にできるものではない。巴爾斯済蘇は朕に事えて日久しいとはいえ、今その罪があれば当然法のように論ずべきだ」と述べた。かつて拝珠に「朕は幼冲を以て大業を嗣承し、錦衣玉食何を求めても得られないものはないが、ただ我が祖宗は風に櫛り雨に沐して万方を戡定した、かつてこの楽しみがあっただろうか。卿は元勲の裔であり朕の至懐を体し爾の祖を忝めることのないようにせよ」と述べると、拝珠は頓首して「創業は艱難で守成は易くありません。陛下の睿思がここに及ぶのは億兆の福です」と答えた。また大臣に「中書が人を選び事を署してから旬日も経たないうちに御史台がすぐにこれを改除し、台が除した者を中書もまたそうする。今山林の下に遺逸が良に多いのに、卿らは心を尽くして求訪できず、ただ親戚故旧を以て更に相引用するだけではないか」と述べた。その明断はこのようであったが、刑戮に果決であったため奸党は誅を畏れ、ついに大変を構えたという。