大唐西域記記贊

  • 要旨: 記贊は、仏の教えの広大さと玄奘の求法の志・功績を讃え、持ち帰った経典・仏像・舎利の目録と翻訳方針を記した後、筆録者辯機自身による本書編纂の経緯と方針を述べる。

仏法への讃辞

  • 仏(法王)の教化は形を超えて世界に及び、生滅を超越した存在でありながら、迦維羅衛国に生まれ娑羅双樹の下で入滅を示すという方便で衆生を導いたとし、大迦葉が仏恩に報いるため三蔵(四含・律・論)を編纂したことの意義を述べる。
  • しかし仏の教えについては伝承に食い違いが多く、真意を正確に伝えることの難しさを認め、唐の代に至って翻訳事業が盛んになったことを、王化の広がりによるものとして讃える。

玄奘の生涯と求法の旅

  • 玄奘の出自と学問への志、各地を遊学した経緯を述べ、貞観三年(629年)秋に旅立ち、鉄門・石門の険や葱嶺・雪山を越えてインドに至ったとする。
  • インドの学僧たちが玄奘を「解脱天」(小乗の学徒より)「大乗天」(大乗の学徒より)と称え、その学識の深さを讃えたと記す。
  • 釈迦ゆかりの地(上茅城、鹿野苑、杖林、雞園、迦維羅衛国、拘屍那城など)を巡礼した際の感慨を述べる。

持ち帰った聖遺物と経典の目録

  • 仏の肉舎利百五十粒、金・銀・栴檀製の仏像七体(それぞれ前正覚山の龍窟影像、鹿野苑の初転法輪像、憍賞弥国の優填王像、劫比他国の宝階降下像、鷲峰山の法華経説法像、那掲羅曷国の毒龍調伏影像、吠舎厘国の巡城教化像を模したもの)を持ち帰ったとする。
  • 大乗経二百二十四部、大乗論百九十二部、上座部・大衆部・三弥底部・弥沙塞部・迦葉臂耶部・法密部・説一切有部の経律論、因論・声論を合わせ、総計六百五十七部の経典を持ち帰ったとする。
  • 貞観十九年(645年)正月に洛陽で太宗に謁見し、勅命により翻訳事業に従事したとする。

翻訳方針をめぐる議論

  • 玄奘は梵語の原意を尊重し、装飾を加えず正確な翻訳を旨としたとする。
  • ある識者が、インドの言語表現の緻密さを踏まえ、翻訳は分かりやすさを旨としつつ原意を損なわないことが肝要であるとし、老子の「美言は信ならず、信言は美ならず」、韓非子の「理正しき者はその言を直くす」という言葉を引いて、華美に流れず質朴に過ぎず、道理を正しく伝える訳文こそ善いと論じたという問答を記す。
  • 出席者一同がこれに同意し、玄奘の翻訳が孔子の『春秋』編纂の厳格さになぞらえられるべきものであり、鳩摩羅什やその門下のように自由に文章を潤色するようなことがあってはならないと結論づけたとする。

筆録者辯機の跋

  • 筆録を担当した辯機が自らの至らなさを謙遜しつつ、この地誌をまとめた経緯を記す。
  • 司馬遷の『史記』編纂の労苦を引き合いに出しつつ、風土・習俗・産物などは詳しく記す一方、外交儀礼や戸口・兵力など仏教に関わらない事柄は省いたと述べる。
  • インド国内は明確な行政区分がないため、実際に訪れた地は直接の見聞として、伝聞の地は伝聞として区別して記したとする。
  • 貞観二十年(646年)秋七月に脱稿したとし、本書が唐の徳化が及ぶ広がりを示す記録として、地理書の空白を埋め史官の職掌に資することを願うとして結ぶ。