大唐西域記羯若鞠阇國

  • 要旨: 羯若鞠阇国(曲女城国)は仙人の呪いにまつわる国号の由来と、戒日王の即位・治世・玄奘との会見・曲女城の大法会という一連の重要な出来事を記す。

地理と風俗

  • 周囲四千余里、殑伽河(ガンジス川)西岸に大都城(長さ二十余里・幅四、五里)を構え、異国の珍しい財貨が集まる豊かな国とする。
  • 気候は穏やかで風俗は素朴、人々は容貌が美しく学問と弁論を好み、正邪の信仰がほぼ半々とする。
  • 伽藍百余か所、僧徒一万余人が大小二乗を兼学し、天祠二百余か所に数千人の異教徒がいるとする。

国号の由来

  • 古の王城「花宮」の王梵授には千人の王子と百人の王女がいたとし、殑伽河のほとりで長年瞑想する大樹仙人が、王女たちの姿を見て愛欲を起こし求婚したという伝説を記す。
  • 王女たちが誰一人応じない中、末の幼い王女だけが国難を恐れて自ら仙人に嫁ぐことを申し出たが、仙人はその幼さを侮辱と受け取り「九十九人の王女すべての腰が曲がるように」と呪いをかけ、その結果王城は「曲女城」と呼ばれるようになったとする。

戒日王の系譜と治世

  • 現王(戒日王、曷利沙伐弾那)は吠奢種の出で、父の光増王、兄の王増王を経て即位したが、兄は東印度の設賞迦(月)王に謀殺されたという経緯を記す。
  • 大臣婆尼の推挙で王位を継いだ王子は、殑伽河岸の観自在菩薩像に祈願し、前世の功徳と将来五印度を統べる予言を受けたとし、以後「戒日王」を号し、六年の遠征で五印度を平定、その後三十年にわたり戦をせず善政を敷いたとする。
  • 殺生を禁じ、多数の仏塔・福祉施設を建て、五年に一度私財をなげうつ無遮大会を催し、諸国の沙門を集めて法義を論じさせ、優劣に応じて処遇を分けたという治績を記す。

玄奘と戒日王の会見

  • 玄奘が拘摩羅王の招きで摩掲陀国から迦摩縷波国に赴いた折、戒日王の召しにより両者が会見したとし、戒日王が「摩訶至那国(中国)の秦王天子」の名声をかねて聞いていたことを語り、玄奘が唐の建国と太宗の治績を説明したという対話を記す。

曲女城の大法会

  • 戒日王が曲女城で催した大法会には、殑伽河の両岸を戒日王と拘摩羅王が率いる大軍が進み、二十余国の王や学僧が参集したとし、金の仏像を象に乗せて連日供養する荘厳な儀式の様子を記す。
  • 法会の途上、宝台に火災が起き、王が自ら鎮火に飛び込み無事だったこと、続いて刺客に襲われた際も王が冷静に対処し、嫉妬した外道の陰謀であったことが判明して首謀者のみを処罰し他は追放したという顛末を記す。

曲女城付近の仏跡

  • 城西北の無憂王建立の仏塔は釈迦が七日間説法した場所とし、傍らに過去四仏の遺跡や仏の髪・爪を納めた塔があるとする。
  • 近くの伽藍には長さ一寸半の仏牙が光を放ちながら祀られ、多くの参拝者を集め、拝観料が課されているとする。
  • さらに周辺には金・銀の仏像を安置する精舎や、釈迦の修行の事跡を彫刻した大精舎、日天・大自在天の祠などがあり、城東南の無憂王建立の仏塔は釈迦が六か月間、身の無常・苦・空・不浄を説いた場所とするなど、多くの仏跡が記される。

納縛提婆矩羅城

  • 城東南の納縛提婆矩羅城には壮麗な天祠や、無憂王建立の仏塔(釈迦が七日間説法し、五百の餓鬼が教化されて天に生まれたという伝承の地)などがあるとする。