大唐西域記秣底補羅國

  • 要旨: 秣底補羅国は仏教論師たちの興亡にまつわる複数の逸話(徳光論師・衆賢論師と世親の確執・無垢友論師)で知られる国と記す。

地理と統治

  • 周囲六千余里、大都城は周囲二十余里、穀物・花果に恵まれ気候は穏やかで風俗は素朴とする。
  • 学芸と呪術を重んじ、正邪の信仰がほぼ半々とし、王は戍陀羅種で仏法を信じず天神を敬うとする。
  • 伽藍十余か所、僧徒八百余人が主に小乗説一切有部を学び、天祠五十余か所に異教徒が雑居するとする。

徳光論師の伝説

  • 城南の小伽藍は、徳光(瞿拏鉢剌婆)論師が『弁真論』など百余部を著した場所とし、元は大乗を学んだが『毘婆沙論』に触れて小乗に転じ、大乗を批判する多くの論を著したという経歴を記す。
  • 疑問を解こうと天軍(提婆犀那)羅漢の神通力で兜率天に昇り弥勒菩薩に見えたが、慢心から礼を欠いたため受け入れられず、疑いを解けないまま慢心を捨てられず悟りを得られなかったという逸話を記す。

衆賢論師と世親の確執

  • 徳光の伽藍近くの大伽藍は、衆賢論師が没した場所とする。
  • 衆賢は説一切有部の『毘婆沙論』を深く研究する中で、世親菩薩の『阿毘達磨倶舎論』が毘婆沙師の説を論破していることに反発し、十二年をかけて『倶舎雹論』を著して世親に論戦を挑もうとしたが、世親は老いを理由に対決を避けて中印度へ去ったという経緯を記す。
  • 衆賢は追いかける途上でこの伽藍にて病に倒れ、自らの浅慮を悔いる書状を世親に託して没し、世親はその書を読んで衆賢の労苦を汲み、論の題名を『順正理論』と改めて存続させたという結末を記す。

無垢友の顛末

  • 衆賢の遺骨を納めた庵没羅林の傍らの仏塔は、無垢友(毘末羅蜜多羅)論師の遺骨を納めるとする。
  • 無垢友は衆賢の塔を訪れて感嘆し、大乗を否定し世親の名声を消し去る論を著すことを誓ったが、その直後に錯乱して血を吐き、死に際して自らの過ちを悔いる遺言を残して急死したという逸話を記す。
  • ある羅漢がこれを見て、大乗を誹謗した報いで無間地獄に堕ちたであろうと嘆いたとする。

摩裕羅城

  • 国の西北境、ガンジス川東岸の摩裕羅城には霊験あらたかな大きな天祠と沐浴場(殑伽河門)があり、遠方から数千人が集まって沐浴し、諸王が福祉施設を設けて貧者を救済しているとする。