- 要旨: 迦濕彌羅国(旧名罽賓)は山に囲まれた要害の地で、開国伝説や無憂王・迦膩色迦王による仏教興隆の由緒を持つ国と記す。
地理と統治
- 周囲七千余里、四方を険しい山に囲まれ、古来他国に攻められたことがないとする。
- 農作・花果に恵まれ、竜種の馬・鬱金香・水晶・薬草を産するとする。
- 龍の加護を受けて隣国に威を張り、人々は容貌が美しいが狡猾で、学問を好み正邪の教えを併せ信じるとする。
- 伽藍百余か所、僧徒五千余人があり、無憂王建立の四つの仏塔にはそれぞれ仏舎利が納められているとする。
開国伝説
- 『国志』によれば、この地はもと龍の池であったとし、釈迦が烏仗那国の悪神を降した後、阿難に対し、入滅後五十年に末田底迦阿羅漢がこの国を開くだろうと予言したとする。
- 末田底迦阿羅漢が神通力で龍王から「膝を容れるほどの土地」を求め、体を大きくして龍王に池を明け渡させ、五百の伽藍を建てて他国から買った賤民を寺の使役に充てたが、末田底迦の没後、その賤民の子孫が自ら王を名乗るようになったという建国の経緯を記す。
五百羅漢僧の伝説
- 無憂王の時代、王が寵愛する凡夫僧摩訶提婆(大天)の異端の説をめぐり五百人の羅漢僧を殺そうとしたが、羅漢たちは神通力で北方へ逃れ、後に王が悔いて謝罪したものの羅漢たちは帰国を拒み、王は代わりにこの国に五百の伽藍を建てて羅漢たちに施したという由来を記す。
迦膩色迦王による第四回結集
- 迦膩色迦王が仏教の諸部派の異論に悩み、脅尊者の勧めで諸方から学識僧を招集し、厳しい選抜(悟りを得た者のみを残す)を経て四百九十九人を選び出したとする。
- 気候の理由からこの国での結集を選び、世友尊者が周囲の疑念にもかかわらず糸玉を投げて悟りの証を示し上座に推されたという逸話を記す。
- 五百の賢者が『鄔波第鑠論』『毘奈耶毘婆沙論』『阿毘達磨毘婆沙論』の三十万頌・九百六十万言を著し、三蔵を注釈したとし、迦膩色迦王がこれを銅板に刻ませ石函に封じて塔に納め、薬叉神に国外への持ち出しを禁じさせたという由来を記す。
雪山下王による討伐
- 迦膩色迦王の死後、訖利多種の王が僧徒を追放し仏法を破壊したため、覩貨邏国の呬摩呾羅王(雪山下王、釈迦族の末裔)が商人を装って兵を率いてこの国に入り、訖利多王を討ち取って仏教を復興させたという経緯を記す。
- しかし訖利多種はその後もこの国への恨みを抱き、後に再び王位を得たため、この国では仏教への信仰が篤くなく外道の祠が重んじられているとする。
仏牙伽藍の伝承
- 新城東南の伽藍には長さ一寸半の仏牙が納められ、時に光を放つと伝える。
- その由来として、訖利多種による仏教弾圧で諸方に散った一人の僧が、象の群れに助けられて負傷した象の治療をしたことで象から金函に入った仏牙を授かり、渡河の際に龍に一時奪われたが禁龍の法を学んで取り戻し、この伽藍に納めたという長い伝説を記す。
小伽藍と衆賢論師の遺跡
- 南方の小伽藍には観自在菩薩の立像があり、断食して祈願すれば菩薩が姿を現すとする。
- さらに南東の大山の荒廃した伽藍は、衆賢(僧伽跋陀羅)論師が『順正理論』を著した場所とし、周辺には野獣や山猿が仏塔に花を供える不思議な光景があると記す。
索建地羅論師と象食羅漢の遺跡
- 仏牙伽藍の東の小伽藍は、索建地羅大論師が『衆事分毘婆沙論』を著した場所とする。
- 傍らの仏塔は、大食漢で象と同じ量を食べたために誹りを受けたある阿羅漢の遺骨を納めたもので、その羅漢は入滅前に「前世で象として仏典を運んだ功徳で人に生まれ変わった因縁で大食いになった」と語り、火定に入って入滅したという逸話を記す。
円満論師と覚取論師の遺跡
- 王城西北の商林伽藍は、円満(布剌拏)論師が『釈毘婆沙論』を著した場所とする。
- 城西の大衆部の伽藍は、覚取(仏地羅)論師が『大衆部集真論』を著した場所とする。