大宋中興通俗演義第六十八回 和議成り洪皓、朝廷に帰る (和議成洪皓歸朝)
太后の帰還
- 何鑄・曹勛は臨安に帰り、金主が徽宗の梓宮と韋太后の帰還を許したと報告。高宗は大いに喜んだ。
- 金の宣徽使劉筈が来て高宗を大宋皇帝に冊立し、太后帰還の日程を伝えた。高宗は群臣とともに臨平まで出迎え、韋太后を迎え入れた。都の内外は歓喜に沸いた。
- 太后は久しく金国にあって白髪となり、高宗が「これで心が満たされた」と言うと、太后は表情を曇らせ、講和による南北分裂と屈辱を忘れてはならないと諫めた。高宗は言葉を失い「群臣と議する」と答えるにとどまった。太后は慈寧宮に入った(紹興十二年秋八月)。
梓宮の到着と再度の遣使
- 三日後、徽宗・鄭后・邢后の三梓宮が到着し、高宗は喪服で出迎え龍徳別殿に安置。十月、徽宗と鄭后を永固陵に葬り、邢后を附葬した。
- 講和成立を受け、高宗は沈昭遠・楊願を金へ謝恩使として遣わし、多額の贈物を持たせた。曹勛は過剰な贈答を諫めたが聞き入れられなかった。
- 金主は贈物を喜んだが、左丞相耶律徳は受け取りすぎれば財欲の主と譏られると諫め、金主は贈物を辞退し、代わりに宋の使者洪皓・張邵・朱弁を帰国させることにした。
兀朮の進言と追撃の失敗
- 汴京から戻った兀朮は、戦果を挙げられなかったことを詫びたが、金主は労をねぎらい太師・三省事に封じた。
- 兀朮は、洪皓らは経天緯地の才を持つ危険人物であり、放てば虎を山に放つようなものだと進言。金主は後悔し、騎兵を放って追わせたが、洪皓らはすでに舟中にあり間に合わなかった。
洪皓の帰朝と警告
- 洪皓らは臨安に帰り、高宗に謁見。高宗は洪皓の忠節を蘇武に例えて称えた。洪皓は、金人が最も恐れたのは岳飛のみであり、その死を金の諸酋が祝ったことを伝え、早く大計を定めるよう進言した。
- 高宗は盟誓を理由にためらうが、洪皓・朱弁は小信にこだわり大義を失うべきでないと諫めた。高宗はこれを称賛したものの、秦檜は洪皓らの発言を疎み、朱弁・洪皓を低い官職に留め置いた。洪皓は辞退を願い出たが許されず、後に秦檜により流罪となり配所で没した。
岳飛の最期をめぐる秦檜の疑心
- 高宗は太后帰還を機に秦檜を秦・魏両国公に進封したが、秦檜は蔡京と同格になることを嫌い辞退した。それでも実権は秦檜に集中していた。
- 秦檜は万俟卨に岳飛の最期の言葉を尋ね、「月長老の言を早く信じていれば」という言葉を聞き、月長老が岳飛の謀反を教唆したのではと疑い、何立を金山寺へ遣わして道月長老を捕らえさせようとした。
道月長老の坐化
- 何立が金山寺に着くと、道月長老はちょうど説法の座におり、「吾年三十九、是非終日有…」との偈を吟じた後、法座上で静かに坐化した。
- 何立は長老の死を訝しみ、詐りを疑って遺骸を火葬させたが、白骨と化しただけであった。僧たちはやむなく何立を帰らせ、長老の骨を寺の塔に納めた。