大宋中興通俗演義第四十八回 金の熙宗、劉豫を廃し流す (金熙宗廢謫劉豫)

酈瓊の逃亡と張濬の失脚

呂祉を殺した酈瓊は宋軍の追撃を恐れ、夜のうちに偽斉へ逃げ込んだ。高宗はこの事態に激怒し、これを保挙した張濬の枢密使職を削り、趙鼎を尚書左僕射兼枢密使に復した。張俊を淮西宣撫使、楊沂中を淮西制置使(劉錡を副)とした。言官たちは張濬をなお咎め、遠流に処すべきと論じた。趙鼎は張濬の母の高齢や勤王の功を理由に寛大な処置を求め、中丞張守らも救解に加わり、秦檜だけは沈黙していた。高宗は最終的に趙鼎らの意見を容れ、張濬は永州に留まることとなった。

劉豫の廃位

金では兀朮が劉豫と岳飛の内通を疑い、廃位を議した。金主はこれを容れ、撻懶・兀朮に兵を発させ、宋討伐を装って汴京の劉豫を急襲・捕縛し金へ送った。熙宗は劉豫が岳飛と通じ金を図ったとして斬刑を命じたが、群臣の諫めにより蜀王に降格し監禁するにとどめた。劉豫の子らは配流され、宮人は解放され、莫大な蓄財・兵糧・財貨はすべて会寧へ運ばれた。金は汴京に行台尚書省を再建した。

岳飛の反応と和議への流れ

岳飛は劉豫廃位を喜んだが、秦檜は和議を主張し続けた。金より帰った王倫は、熙宗が太上皇帝夫妻の梓宮返還・韋太后の帰還・河南の返還に応じる意向を示したと報告し、高宗は大いに喜んだ。高宗は再び王倫を金へ遣わし、趙鼎は交渉の要点(礼数は「君臣の分すでに定まる」、境界は「大河を界とする」)を授けた。金国内では梓宮・太后の返還や河南割譲を巡り議論が分かれたが、撻懶らの主張が通り、河南・陝西の返還と歳貢の議が決まった。

遷都臨安と秦檜の台頭

紹興八年正月、遷都の議が再燃し、張守は建康を、趙鼎は臨安を推し、高宗は臨安への巡幸を決めて事実上の定都とした。秦檜は尚書右僕射兼枢密使に任じられ、朝士は祝したが、晏敦復のみ「奸佞の相が国を壊す」と危惧を口にした。

和議をめぐる秦檜の策謀

金使が来朝すると、高宗は母后の帰還を望み和議を急いだが、趙鼎・劉大中は反対した。秦檜は「屈己称臣は人主の大孝」と説き、和議の全権を自らに委ねるよう求めた。高宗の意が固いと見た秦檜は、中書舎人勾龍如淵と謀り、如淵を御史中丞に据えて反対派を弾劾させ、趙鼎を紹興府に、劉大中を参知政事職から退けさせた。