大宋中興通俗演義第四十回 詔して岳飛に湖寇を討たせる (詔岳飛征討湖寇)

金太宗の崩御と熙宗の即位

  • 粘罕・兀朮が金国に帰ると太宗は病篤く、二人を枕辺に召して後事を託す。「契丹こそ憂うべき相手」と語り、弟の完顏亶(篤厚恭謹の人物)を後継に立てるよう遺言して崩じた。
  • 完顏亶が即位し熙宗となる。太祖の嫡孫であり、太宗が位を譲ったことで正統が保たれたとされる。

徽宗崩御の報と洪皓の哀悼

  • 熙宗は即位後も南侵の準備を進める一方、徽宗(太上道君皇帝)が五国城で崩じたとの報が届く。金主は内地への帰葬を許さず、帝の礼で殯するに留めた。
  • 燕山にいた司馬樸・朱弁はこの訃報に痛哭し、朱弁は金国に喪服の許可を請おうとするが、司馬樸は「請うても許されねばどうするか」と止め、二人は自ら喪に服して哭泣。金人もこれを咎めなかった。
  • 平陽駅でこの報を聞いた洪皓は北に向かって血涙を流し、哀悼の詩を作った(詩:徽宗の崩御を悼み、遺骸の帰還も叶わぬ悲しみを詠う)。洪皓は密かに書状を宋に送り、この事実を伝えた。

高宗の帰還と防備の再編

  • 紹興五年二月、高宗は臨安に帰還し、後宮・妃嬪を迎え、太廟を新設した。御史張絢は太廟建設が中原恢復の意志を失わせるものと諫めたが聞き入れられなかった。
  • 趙鼎・張濬を左右僕射兼樞密院事・都督諸路軍馬とし、韓世忠を淮東宣撫使(鎮江)、劉光世を淮西宣撫使(太平)、張俊を江東宣撫使(建康)としてそれぞれ防備にあたらせた。
  • 岳飛は荊湖南北襄陽路制置使に任じられ、洞庭湖の楊么討伐を命じられ、張憲・徐慶・牛臯・王貴・楊再興ら二万を率いて出征した。

楊么の勢力と迎撃準備

  • 洞庭湖ではかつての賊首鍾相の残党を継いだ楊么が「大聖天王」を称し、鍾相の子鍾儀を太子に立て、楊欽・黄佐ら数十人の驍将と数万の兵、数千の戦船を擁して周辺州県を脅かしていた。
  • 岳飛出征の報を受けた楊么は、地の利を頼みに各営が互いに救援し合う持久策を決め、黄佐に湖口の防衛を、周倫・劉衡・黄誠らに東西岸の守りを命じ、自らは十万の兵で洞庭湖上流を統べた。

岳飛軍の軍紀と黄佐の投降

  • 岳飛軍は潭州から進発し、民を騒がせず物品も正当な代価で購い、民の歓迎を受けた。高宗はこの軍紀を称える詔を下した。
  • 岳飛は経府の王忠に招降の榜文を持たせ湖中へ遣わす。過去に多くの使者が楊么方に殺されていたため王忠は恐れるが、岳飛に説かれてやむなく赴く。
  • 黄佐は榜文を受け、岳飛の威名(八百人で王善の五十万を破った故事)を知り、抗戦は無益と判断して投降を決意。王忠と共に潭州で岳飛に謁し、岳飛は厚遇して武義大夫・閣門宣贊舍人に任じた。

岳飛、単身で黄佐の陣を訪ねる

  • 翌日、岳飛は少人数のみを伴い黄佐の陣営を答礼に訪れる。岳雲は不測の事態を案じ同行の兵を勧めるが、岳飛は聞き入れず、わずかな供のみで赴いた。
  • 黄佐は岳飛が武装も従者もなく訪れたことに感激し、丁重に迎えて宴を設けた。岳飛は黄佐に、順逆禍福をわきまえ民を救えば共に富貴を得ようと語り、黄佐は拝謝した。
  • 酒宴の後、岳飛は黄佐に湖中の他の賊将への説得を依頼し、応じない者は機を見て討つよう命じる。黄佐は恩義に感じ、命に従うことを誓った。