大宋中興通俗演義第二十三回 岳飛、虜を破り王権を釈放する (岳飛破虜釋王權)
江口の勝利と将士の結束
翌日、岳飛は江口で金軍と激戦し勝利を収め、数百級を斬り馬駝を多数奪った。長江を兀朮に押さえられ杜充が城に籠るなかで、部下に離反や逃亡の動きが出た。岳飛は涙ながらに、金に降るか賊に落ちるかすれば末代まで汚名が残ると諭し、離反者は軍法で処すが功をあげた者には厚賞すると誓わせた。将士は皆感激して従うことを誓った。
建康の陥落と楊邦義の殉節
兀朮が建康を包囲すること二十日、杜充は守臣陳邦光・戸部尚書李稅と降伏を協議した。通判の楊邦義は号泣して反対したが聞き入れられず、杜充は開門して金軍を迎え、兀朮の馬前に拝した。楊邦義だけは屈せず、衣の裾に血で「趙氏の鬼となるとも他国の臣とはならぬ」と書いた。兀朮はその義を惜しみ懐柔を試みたが、楊邦義は罵り拒んだため殺された。金の将もその忠義を嘆じたという(詩:楊邦義の忠節を讃えるもの)。兀朮は建康を得た後、杜充を黏沒喝のもとへ送ったが、黏沒喝はその人物を軽んじ久しく官職を与えなかった。
高宗の海上避難
建康陥落と長江失陥の報に高宗は動揺し、呂頤浩の進言で舟に乗り海へ逃れ、明州へ向かった。追撃してきた阿里蒲廬渾の軍を、張公裕と楊沂中が迎え撃って撃退した。高宗は沂中の手を執って感謝し、その後定海県から船で難を避けた。従駕の官が多く船が狭かったが、高宗は百官を見捨てることを拒み、多くの者が付き従った。
岳飛の勤王と将士掌握
高宗が昌国県に至り勤王の詔を発すると、岳飛は建康陥落と帝の海上避難を知り部下を集めて勤王を図った。部下の中に金への投降を勧める動きがあったが、岳飛は背に彫られた「盡忠報國」の四字を示して忠義を説き、将士は感泣して従うことを誓った。
王権の帰順と兀朮軍撃破
岳飛は広德で兀朮の哨兵を破り、金将王権を捕えて義によって釈放した。王権は恩義に感じ、夜間に内応の合図の火を上げることを約束し、その通り実行した。岳飛はこれに呼応して金営を攻め、兀朮軍は大混乱に陥り多くの死者を出した。岳飛は矢筒から見慣れぬ矢を見つけ、部下の戚方が誤射か故意か疑いを抱きつつも証拠として保管した。岳飛はその後中村に駐屯し、軍律を厳格に守って民を害さなかった。王権が奪った糧草馬駝を献じると岳飛はこれを将士に分与し、王権の部下も多数帰順した。
金沙寺の記
岳飛は広德の金沙寺を訪れ、僧に迎えられて清幽な景色を楽しみ、西廊の壁に大意「中原回復と二聖奉迎を果たしてこの地に再び来たい」という趣旨の記文を大書した(建炎四年四月十二日の日付とともに)。その後中村に戻り軍馬を整えて勤王へ向かった。
常州解囲
高宗は温州から越州へ戻り、隆祐太后を処州から迎える手配をした。趙鼎の奏上により、岳飛が宜興一帯を安堵していることが評価され、常州包囲を解くよう詔が下った。宜興県では賊首郭吉が糧を奪っていたが、岳飛配下の王貴・傅広がこれを撃退し糧を取り戻した。進軍の途上、戚方が再び反乱を起こして賊に走ったとの報が入った。