文学概観
- 『易』に「人文を観て天下を化成す」といい、孔子は「煥として其れ文章あるかな」と言った。楚漢以来、文人が世に出て洛陽・江左でその流れがいよいよ盛んになり、造化に通じ日月と並ぶほどの者もあった。大にしては典謨を明らかにし王道を輔け、小にしては文理を清正にし性情を述べるもので、経・礼楽を貫き人倫を通じ古今を貫いて美悪を述べるにはこれに勝るものはない。後主は文詞を尊び学芸を求め、群臣の上表や賦頌を自ら閲覧し、辞のすぐれた者には神筆を振るって激賞し爵位を加えたため、士大夫たちは競って励んだ。名位や功迹によって文学以外で評価される者は別に論じ、ここでは杜之偉ら学問と文才を兼ね備えた者を集めて記す。
出自と経歴
- 字は子大、呉郡銭塘の人。家は代々儒学の家で三礼を専門とした。父の規は梁の奉朝請で、光禄大夫済陽の江革・都官尚書会稽の孔休源と親交があった。之偉は幼くして精敏で逸才があり、七歳で『尚書』を受け『詩』『礼』もほぼ通じ、十五歳で文史および儀礼の故事をあまねく観た。仆射徐勉はその文を見て筆力を重んじた。中大同元年(546年)、梁武帝が同泰寺に幸して捨身した際、勅して徐勉に儀注を撰定させたが、台閣に先例がなかったため之偉を召して具体案を起草させ、東宮学士に補せられた。学士劉陟らと群書を鈔撰し、それぞれ題目を立て、撰した『富教』『政道』の二篇はいずれも之偉が序を作った。
- 湘陰侯蕭昂が江州刺史となると之偉に記室を掌らせ、昂が没すると廬陵王続がこれに代わり、手ずから教書を送って之偉を招いたが固辞して応じず、昂の柩を京師に送り届けた。臨成公の侍読を務め、扬州議曹従事・南康嗣王墨曹参軍・兼太学限内博士に除せられた。七年、梁の皇太子が国学で釈奠を行った際、楽府に孔子・顔子の登歌詞がなかったため、尚書が参議して之偉にその文を作らせ、伶人はこれを伝習して故事とした。安前郡陵王田曹参軍に転補され、刑獄参軍に転じた。之偉は年齢・地位ともに低かったが、強識俊才により当世に名を知られ、吏部尚書張纉は深くこれを知り「廊廟の器」とみなした。
- 侯景の反乱で之偉は山沢に逃れた。高祖が丞相となるとその名を聞き記室参軍に召補し、中書侍郎に遷し大著作を領させた。高祖受禅の後、鴻臚卿を除せられ他は変わらなかった。之偉は著作の解任を求めて上表し、紹泰元年(555年)以来国史を掌り四年に及んだことを述べ、自らの才の乏しさを謙遜し賢者に道を譲ることを願い出たが、優詔で許されなかった。まもなく大匠卿に転じ太中大夫に遷り、勅して梁史を撰させられた。永定三年(559年)に卒した。時に年五十二。高祖は深くこれを悼み、詔して通直散騎常侍を贈り、銭五万・布五十匹・棺一具を賜り期日を定めて挙哀した。之偉の文は浮華を尚ばず温雅博贍で、著作の多くは失われたが、現存するものは十七巻である。