出自と経歴
- 字は直言、清河武城の人。祖の僧宝は梁の散騎侍郎・太子洗馬、父の仲悦は梁の廬陵王府録事参軍・尚書祠部郎中。譏は幼くして聡俊で思理あり、年十四で『孝経』『論語』に通じ、玄言を篤好し、汝南の周弘正に学び、新意を出すたびに先輩に推服された。梁の大同中、国子正言生に召補された。梁武帝が文徳殿で『乾坤』文言を解釈した際、譏は陳郡の袁憲らとともに列席し、勅命で論議させられたが諸儒は誰も先に出なかったところ、譏は容儀を整えて進み出て循環して問い質し、辞令は温雅で、梁武帝はこれを異とし裙・襦・絹などを賜って「卿の稽古の功を表す」と言った。
- 譏は幼くして母を喪ったが、母の遺した錯綵の経帕を身につけると常に嗚咽して耐えられなかった。父の喪に服する際も礼を過ぎるほど厳しく守り、服喪を終えると湘東王国左常侍に召補され、田曹参軍に転じ、士林館学士に遷った。簡文帝が東宮にあって士林館に出て『孝経』の題を発した際、譏は論議を往復して大いに嗟賞され、以後講集があるたびに使者を遣わして譏を召した。
- 侯景の乱では包囲された城中で武徳後殿に哀太子に侍って『老子』『荘子』を講じ続けた。梁の台城が陥落すると譏は困難を避けつつも景に仕えなかった。景が平定されると臨安令を歴任し、高祖受禅の後は太常丞、始興王府刑獄参軍に除せられた。天嘉中に国子助教に遷った。当時、周弘正が国学で『周易』の題を発した際、弘正の第四弟弘直も講席にいて、譏が弘正と論議して弘正が屈すると、弘直が正座して声を張り兄を助けようとした。譏は正色して弘直に「今日の義集は名理を正すもの、兄弟の情誼は分かるが、あなたが助太刀することはできない」と言うと、弘直は「私は君の師を助けているのだ、何がいけない」と答え、満座が笑いに包まれた。弘正は常々「私は座に登るたびに張譏がそこにいると懔然とする」と語ったという。
- 高宗の代に建安王府記室参軍・兼東宮学士を歴任し、武陵王限内記室学士に転じた。後主が東宮にあったとき、宮僚を集めて宴を催した際、新しく作った玉柄の麈尾を後主が手にして「今は士が林のごとく多いが、これを持つにふさわしいのは張譏だけだ」と言って直接授け、温文殿で『荘子』『老子』を講じさせた。高宗が宮に幸して聴講し、御所服一襲を賜った。後主嗣位の後、南平王府咨議参軍・東宮学士を領し、国子博士学士に遷った。後主がかつて鍾山開善寺に幸し、寺の西南の松林下に従臣を座らせ譏に竪義を命じたとき、麈尾が届く前に後主が松の枝を取って「これを麈尾の代わりにせよ」と授け、群臣を顧みて「これこそ張譏だ」と言った。禎明三年(589年)に隋に入り、長安で卒した。時に年七十六。
- 譏は性恬静で栄利を求めず、常に閑逸を慕い、住居に山池を営み花果を植えて『周易』『老子』『荘子』を講じ教授した。呉郡の陸元朗・朱孟博、一乗寺の沙門法才、法雲寺の沙門慧休、至真観の道士姚綏が皆その学を伝えた。撰した書は『周易義』三十巻、『尚書義』十五巻、『毛詩義』二十巻、『孝経義』八巻、『論語義』二十巻、『老子義』十一巻、『荘子内篇義』十二巻・外篇義二十巻・雑篇義十巻、『玄部通義』十二巻、また『遊玄桂林』二十四巻を撰した。後主はかつて人を遣ってその家から書を写させ秘閣に収めさせた。子の孝則は官が始安王記室参軍に至った。