出自と出仕
- 陸繕、字は士繻。呉郡呉の人。祖父の陸恵暁は斉の太常卿、父の陸任は梁の御史中丞。繕は幼くして志尚があり雅正をもって知られた。梁の宣恵武陵王法曹参軍から起家し、承聖中、中書侍郎として東宮管記を掌った。江陵陥落後、繕は微服で京師に逃げ帰った。
- 紹泰元年、司徒右長史・御史中丞に除せられるはずが、父の任地で没したことを理由に固辞して就かなかった。高祖は繕を司徒司馬とし、給事黄門侍郎・歩兵校尉領・通直散騎常侍・侍中兼を遷った。永定元年、侍中に遷った。当時、留異が東陽に拠り、新安の人向文政が異と結んで本郡に拠っていたため、朝廷は繕を貞威将軍・新安太守とした。
- 世祖嗣位後、太子中庶子・歩兵校尉領・東宮管記掌に徴された。繕は容姿端麗で立ち居振る舞いも閑雅であり、世祖は太子や諸王にその立ち居振る舞いを模範とさせ、歩き方や履物の様式まで繕に倣わせたという。
晩年
- 尚書吏部郎中・歩兵はそのままに除せられ東宮に侍した。陳宝応平定後、貞毅将軍・建安太守として出、任期満了後、散騎常侍・御史中丞に任じられるはずが、なお父の任地で没したことを理由に固辞したが許されず、官舎を改めて移り住んだ。
- 太建初め、度支尚書・侍中・太子詹事・行東宮事・領揚州大中正に遷った。太子が自ら政務を執るようになると行事の任を解かれ、散騎常侍を加え、さらに侍中を加え尚書右僕射に遷り、まもなく左僕射に遷り選事を参掌、侍中はそのまま。さらに尚書僕射に転じ前将軍を領し、再び左僕射・揚州大中正領に復し、別に勅により徐陵ら七人とともに政事を参議した。
- 十二年に没した。時に年六十三。侍中・特進・金紫光禄大夫を贈られ諡は安。太子は繕が東宮の旧臣であったことから特に祖奠を賜った。繕の子の陸辯恵は幼くして数歳のとき詔により宮殿内に召され、対応が父の風格を備えていたことから、高宗は辯恵と命名し字を敬仁とした。繕の兄の子の陸見賢も方雅な人柄で、高宗が揚州牧のとき治中従事史として深く知遇を受け、給事黄門侍郎・長沙鄱陽二王長史・尋陽太守・少府卿を歴任し、太建十年に没した。時に年五十。廷尉卿を贈られ諡は平。
史論
- 史臣曰く、衣冠の雅道と廊廟の嘉猷は、操履の篤実と局宇の詳正によって成る。経に「容止観るべし」とあり、詩に「其の儀忒わず」とあるように、この三子(沈君理・王瑒・陸繕)にはまさにその風があった。