出自と出仕
- 王瑒、字は子璵。司空王沖の第十二子。沈静で器局があり、容姿・立ち居振る舞いに優れた。梁の大同中、秘書郎から起家し太子洗馬に遷った。元帝の承制で中書侍郎に徴され殿省に直し相府の管記を掌った。東宮内史として出、太子中庶子に遷り、生母の喪により丹陽に帰った。江陵陥落後、梁の敬帝の承制で仁威将軍・尚書吏部郎中を除せられた。
- 貞陽侯僭位の際は敬帝を太子として散騎常侍・侍東宮を授かり、まもなく長史・兼侍中に遷った。高祖入輔後は司徒左長史として、永定九年、守五兵尚書に遷った。世祖嗣位後、散騎常侍・太子庶子領を授かり東宮に侍し、左驍騎将軍・太子中庶子・常侍侍中をそのまま領した。瑒は侍中を六年務め、父の王沖がかつて中庶子の兼任を辞めさせようとした際、世祖は沖に「瑒を長く承華(東宮)に留めているのは、太子に瑒の風法を少しでも身につけさせるためだ」と語ったという。
- 廃帝嗣位後は侍中・左驍騎将軍を領し、光大元年、父の喪により去職。高宗即位後、太建元年に侍中・左驍騎将軍領に復し、度支尚書・羽林監領に遷り、信威将軍・雲麾始興王長史・行州府事として出るはずが未行のまま中書令に遷り、散騎常侍を加え吏部尚書に除せられ常侍はそのまま。瑒は寛和な性格で、選職にあっては清静を旨とし文案を謹守し抑揚をしなかった。
晩年と一族
- 尚書右僕射を授けられるはずが未拝のまま侍中を加え左僕射に遷り選事を参掌、侍中はそのまま。瑒の兄弟三十余人は家にあって篤睦で、歳時ごとの饋遺は近親に遍く及び、諸弟を教え導いた。太建六年に没した。時に年五十四。侍中・特進・護軍将軍を贈られ喪事は官から給された。諡は光。
- 瑒の十三番目の弟の王瑜、字は子珪も名を知られ容姿に優れ早くから清顕の職を歴任した。年五十で侍中に至った。永定元年、斉への使者となり陳郡の袁憲を副とした。斉は王琳の一件により両人を捕らえ辱め続けた。斉の文宣帝は行幸の際に死刑囚を伴い「供御囚」と呼び、怒りを覚えるたびに殺して意を晴らしたといい、瑜と憲は幾度も危殆に瀕した。斉の僕射楊遵彦がその無辜を憐れみたびたび救護した。天嘉二年に帰朝し侍中に復し、まもなく没した。時に年四十。本官を贈られ諡は貞。