陳書卷二十三 列傳第十七 沈君理

沈君理、字は仲倫。呉興の人。高祖の女婿(会稽長公主を娶る)として陳に重用され、呉郡太守として民政に手腕を発揮した。世祖・高宗の代に累進し、娘が皇太子妃となったことで外戚としても栄達したが、太建五年、四十九歳で没した。

年表(8件)

出自と初期の出仕

  • 沈君理、字は仲倫。呉興の人。祖父の沈僧㫑は梁の左民尚書、父の沈巡は高祖と親しかった。梁の太清中、東陽太守となり、侯景平定後、元帝は少府卿に徴したが、荊州陥落後は蕭詧のもとで金紫光禄大夫を署された。君理は容姿に優れ経史に通じ識鑑があり、湘東王法曹参軍から起家した。
  • 高祖が南徐州に鎮した際、沈巡は君理を東陽から高祖のもとへ遣わし謁見させ、高祖はこれを重んじ会稽長公主を娶らせ、府西曹掾に召した。中衛豫章王従事中郎に遷り、明威将軍・尚書吏部侍郎を兼ね、給事黄門侍郎・監呉郡に遷った。
  • 高祖受禅後、駙馬都尉を拝命し永安亭侯に封ぜられ、呉郡太守として出た。兵革が未だ収まらず百姓が疲弊し、軍国の需要は東境に頼っていたが、君理は士卒を招集し器械を整え、民に慕われ、幹理をもって称された。

世祖・高宗のもとで

  • 世祖嗣位後、侍中に徴され、左民尚書を守るはずが未拝のまま明威将軍・丹陽尹となった。天嘉三年、左民尚書に再任し歩兵校尉を領し、まもなく前軍将軍に改めた。四年、侯安都が江州に転鎮すると本官のまま南徐州を監した。六年、仁威将軍・東陽太守として出た。
  • 天康元年、父の喪により去職。君理は自ら荊州へ柩を迎えに行くことを願ったが、朝議は重臣が任地を離れることを難じ、兄の君厳が代わって赴いた。柩が還ると父の沈巡に侍中・領軍将軍を贈り諡は敬とされた。同年、君理は信威将軍・左衛将軍として起用され、さらに持節・都督東衡衡二州諸軍事・仁威将軍・東衡州刺史・始興内史、また明威将軍・中書令として三度奪情(喪中の出仕)を命じられたがいずれも就かなかった。
  • 太建元年、服喪明けに太子詹事・行東宮事に除せられ、吏部尚書に遷った。二年、高宗が君理の娘を皇太子妃としたことにより望蔡県侯・食邑五百戸を賜り、四年、侍中を加え、五年、尚書右僕射に遷り吏部・侍中はそのまま。同年病を得て帝自ら見舞ったが九月に没した。時に年四十九。侍中・太子少傅を贈られ、喪事は官から給された。翊左将軍・開府儀同三司・侍中を重贈され、諡は貞憲。子の沈遵儉は早世し弟の沈君高の子沈遵礼が嗣となった。

沈君理の一族

  • 君理の五番目の叔父の沈邁も方正で幹局があり、梁で尚書金部郎、永定中に累遷して中書侍郎、天嘉中に太僕・廷尉を歴任し、鎮東始興王長史・会稽郡丞・行東揚州事として出、光大元年、尚書吏部郎に除せられ、太建元年、通直散騎常侍として東宮に侍し、二年に没した。時に年五十二。散騎常侍を贈られた。
  • 君理の六番目の弟の沈君高、字は季高は若くして名を知られ剛直で吏才があった。外戚として早くから清顕の職を歴任し、太子舎人・洗馬・中舎人、高宗司空府従事中郎・廷尉卿を経た。太建元年、東境の大水で百姓が飢弊した際、貞威将軍・呉令として起用され、太子中庶子・尚書吏部郎・衛尉卿を歴任、宣遠将軍・平南長沙王長史・南海太守・行広州事として出、娘を王妃にとの話もあったが固辞して赴かず、衛尉卿に復した。
  • 八年、詔して持節・都督交広等十八州諸軍事・寧遠将軍・平越中郎将・広州刺史とされた。嶺南の俚僚(少数民族)は互いに攻伐を繰り返していたが、君高は本来文官で武略はなく、誠意をもって撫御し民和を得た。十年、官のまま没した。時に年四十七。散騎常侍を贈られ諡は祁。