駱牙
- 駱牙、字は旗門。呉興臨安の人。祖父の駱秘道は梁の安成王田曹参軍、父の駱裕は鄱陽嗣王中兵参軍事。牙が十二歳の頃、人相を見る宗人に「この少年は容貌並外れて必ず遠く名を成す」と評された。梁の太清末、世祖が難を避けて臨安にいた際、牙の母は世祖の非凡な儀表を見て厚遇した。
- 世祖が呉興太守となると牙は将帥として招かれ、杜龕・張彪らの平定に従い、戦うごとに先鋒として陥陣し勇猛は諸軍で群を抜いた。功により直閣将軍を授けられ、太平二年、母の喪により去職。世祖が会稽に鎮すると起用され山陰令となり、永定三年、安東府中兵参軍に除せられ冶城に出鎮、まもなく世祖に従い南皖で王琳を拒んだ。
- 世祖即位後、仮節・威虜将軍・員外散騎常侍を授けられ常安県侯・食邑五百戸に封ぜられ、臨安令として出、越州刺史に遷り他はそのまま。牙の母が没した際は飢饉と兵乱のため長らく葬ることができず、この時になって初めて葬られ、常安国太夫人を贈られ諡は恭とされた。牙は貞威将軍・晋陵太守に遷り、三年、周迪平定の功で冠軍将軍・臨川内史に遷った。
- 太建三年、安遠将軍・衡陽内史を授けられたが未拝のまま桂陽太守に転じ、八年、朝に還り散騎常侍に遷り殿省に入直、十年、豊州刺史を授けられ他はそのまま。至徳二年に没した。時に年五十七。安遠将軍・広州刺史を贈られた。子の駱義が跡を継いだ。
史論
- 史臣曰く、陸子隆・銭道戢はあるいは一門を挙げて従い、あるいは古参として功を樹てた統率の才があり、軍旅の任を全うした。藩屏の任を受けて功績を著したのはまことに立派である。駱牙は真を識り世祖の天授の徳を奉じた点で張良に亜ぐと言えよう。牙の母の深い先見の明は柏谷の礼(漢の高祖の逸話)にも符合する。君子の鑑識の宏遠さはここにあるのだろう。