錢道戢
- 銭道戢、字は子韜。呉興長城の人。父の銭景深は梁の漢寿令。道戢は若くして孝行で知られ、成長すると才略があった。高祖が微賤の頃、従妹をめとらせた縁があった。盧子略に従い広州を平定し濱江令として出、高祖が輔政すると世祖に従い会稽で張彪を平定し、功により直閣将軍を拝命、員外散騎常侍・仮節東徐州刺史・永安県侯・食邑五百戸を授けられ甲卒三千を領し、侯安都に従い梁山を鎮防した。
- 銭塘・餘杭の二県令を兼ね、永定三年、世祖に従い南晥口に鎮し、天嘉元年、剡令を兼ね県の南巌に鎮し、まもなく臨海太守として巌に鎮した。侯安都が留異を討った際、道戢は松陽から兵を出して後方を断ち、異平定の功により持節・通直散騎常侍・輕車将軍・都督東西二衡州諸軍事・衡州刺史・始興内史を授けられた。光大元年、食邑を合わせて七百戸に増された。
- 高宗即位後、欧陽紇を朝廷に召したところ紇が疑懼して衡州を攻めたため、道戢は迎撃してこれを退けた。都督章昭達が紇討伐の兵を率いた際、道戢は歩軍都督として間道から紇の後方を断ち、紇平定後は左衛将軍に除せられた。太建二年、昭達に従い江陵で蕭巋を征し、道戢は別に軍を督して陸子隆とともに青泥の舟艦を焼き、昭達の前軍として安蜀城を攻め降した。功により散騎常侍・仁武将軍を加えられ、食邑を合わせて九百戸に増された。
- 同年、仁威将軍・呉興太守に遷ったが未行のまま、使持節・都督郢巴武三州諸軍事・郢州刺史に改授された。王師の北討で道戢は儀同の黄法氍とともに歴陽を囲み、平定後は道戢がこれを鎮した。功により雲麾将軍を加え、食邑を合わせて一千五百戸に増された。同年十一月、病を得て没した。時に年六十三。本官を贈られ諡は粛。子の銭邈が跡を継いだ。