陳書卷二十二 列傳第十六 陸子隆
陸子隆、字は興世。呉郡呉の人。侯景の乱で郷里の徒衆を率いて頭角を現し、世祖・高宗に仕えて周迪・陳宝応の討伐で功を挙げ、荊州刺史として公安の城郭整備・民和に尽力した武将。太建二年、四十七歳で没した。
出自と武功
- 陸子隆、字は興世。呉郡呉の人。祖父の陸敞之は梁の嘉興令、父の陸悛は封氏令。子隆は若くして慷慨として功名の志を持ち、東宮直後から起家した。侯景の乱では郷里で徒衆を集め、当時呉郡太守であった張彪に将帥として引かれた。彪が会稽に移ると子隆も従い、世祖が彪を討った際、彪の将の沈秦・呉宝真・申縉らが降る中で子隆だけは力戦して敗れた。世祖はその義を認め、部曲を復させ中兵参軍に板授し、始豊・永興の二県令を歴任した。
- 世祖嗣位後、子隆は甲仗を領し宿衛し、侯安都に従い沌口で王琳を拒んだ。王琳平定後、左中郎将を授けられ、天嘉元年、益陽県子・食邑三百戸に封ぜられた。高唐郡太守として出、二年、明威将軍・廬陵太守に除せられた。
- 周迪が臨川に拠って反した際、東昌県人の修行師がこれに応じ兵を率いて子隆を攻めたが、子隆は外に伏兵を置き門を閉じて弱を装い、行師が近づくと前後から挟撃し大破、行師は降を乞い子隆はこれを許し京師に送った。
晋安平定と晩年
- 四年、周迪が陳宝応を引き入れ再び臨川に出ると、子隆は都督章昭達に従い迪を討ち退け、さらに昭達に従い東興嶺を越えて陳宝応を討伐、建安に至ると郡を監させられた。宝応は建安の湖際に拠り官軍を拒んだ。昭達と子隆はそれぞれ営を構えたが、昭達が先に戦って不利となり鼓角を失った際、子隆は聞いて兵を率いて救援し賊を大破、昭達の失った羽儀甲仗をすべて奪還した。晋安平定において子隆の功が最も大きく、仮節・都督武州諸軍事・将軍はそのままに遷った。まもなく朝陽県伯・食邑五百戸に改封された。
- 廃帝即位後、智武将軍に進号し員外散騎常侍を加えた。華皎が湘州に拠り反した際、子隆はその心腹の地にあり、皎はこれを深く憂い招誘を繰り返したが子隆は従わず、兵を出して攻めたが陥せなかった。皎が郢州で敗れると子隆は兵を出してその後方を襲い、王師と合流した。持節・通直散騎常侍・都督武州諸軍事を授けられ侯に進爵、食邑を合わせて七百戸とされた。
- のち都督荊信祐三州諸軍事・宣毅将軍・荊州刺史・持節常侍はそのままに遷った。当時、荊州は新たに公安に治所を置いたばかりで城池が固まっていなかったが、子隆は城郭を修め夷夏を綏撫し民和を得て、当時称職と評された。三年、吏民が都で碑を立てて功績を称える表を上げ、詔してこれを許した。太建元年、雲麾将軍に進号し、二年に没した。時に年四十七。散騎常侍を贈られ諡は威。
- 子の陸之武が跡を継いだ。之武は十六歳で旧軍を領し、呉明徹の北伐に従い功があり、王府主簿・宏農太守を経て明徹に隷属した。明徹が呂梁で敗れると之武は逃げ帰る途中、人に殺害された。時に年二十二。子隆の弟の陸子才も才略があり、子隆の征討に従い功があった。始平太守・始興県子・食邑三百戸に封ぜられ、呉明徹の北伐で安州を監し宿預に鎮し、中衛始興王諮議参軍・飊猛将軍・信州刺史を経て、太建十三年に没した。時に年四十二。員外散騎常侍を贈られた。