陳書卷二十一 列傳第十五 張種

張種、字は士苗。呉郡の人(祖父張辯、父張略)。若くして恬静で交遊を好まなかった清虚の学者。侯景の乱後、司徒王僧辯に起用されて陳に仕え、天嘉年間に左民尚書、太建初めに娘が始興王妃となり栄達したが、仁恕で家産にこだわらぬ人柄で知られた。太建五年、七十歳で没し特進を追贈された。

年表(3件)

張種

  • 張種、字は士苗。呉郡の人。祖父の張辯は宋の司空右長史・広州刺史、父の張略は梁の太子中庶子・臨海太守。種は若くして恬静で交遊を好まず、時人に「宋には敷演、梁には巻充があり、清虚の学は種にもその風がある」と評された。
  • 梁の王府法曹に仕え外兵参軍に遷ったが、父の喪により去職。服喪明けに中軍宣城王府主簿となったが年四十過ぎで家貧しく、始豊令を求めて赴任。のち中衛西昌侯府西曹掾に入り、武陵王が益州刺史となった際、府僚として招かれたが母の老いを理由に上表して辞退し免官となった。
  • 侯景の乱に母を奉じて東へ逃れ、郷里に至った。まもなく母が没し、時に種は年五十であったが哀毀甚だしく、また凶荒のため時に葬ることができず、喪服は解いても居処・飲食は喪中のようであった。乱平定後、司徒の王僧辯が状を奏上し貞威将軍・治中従事史として起用され、葬礼を整えさせた。葬儀後、種は初めて喪を解いた。僧辯はまた種が老いて後嗣がないことを案じ妾と居具を賜った。
  • 貞陽侯僭位の際は廷尉卿・太子中庶子、敬帝即位後は散騎常侍から御史中丞・前軍将軍を領した。高祖受禅後、太府卿となり、天嘉元年、左民尚書に除せられた。二年、呉郡を権監し、まもなく本職に復し、侍中・歩兵校尉領を経て公事で免ぜられ、白衣で太常卿を兼ね、まもなく実授。廃帝即位後は右軍将軍を加えられたが未拝のまま宏善宮衛尉を領し、揚・東揚二州大中正も領した。
  • 高宗即位後、再び都官尚書・左驍騎将軍を領し中書令に遷り、驍騎・中正はそのまま。病のため金紫光禄大夫を授けられた。種は沈深虚静で識量が宏博であり、当時、宰相の器と目された。僕射の徐陵はかつて自ら地位を種に譲る上表をしたほどであった。太建五年に没した。時に年七十。特進を贈られ諡は元。種は仁恕で欲少なく、高位を歴任しながらしばしば家産が空になっても平然としていたという。太建初め、娘が始興王妃となり、居所が狭陋であることから宅を一区賜り、また無錫・嘉興県の侯の秩をたびたび賜った。かつて無錫で重罪の囚人を寒中に日に当てるため出したところ逃亡させてしまい、世祖は大笑して深く責めなかったという。文集十四巻が世に行われた。
  • 種の弟の張稜も清静で識度があり、司徒左長史に至り、太建十一年に没した。時に年七十。光禄大夫を贈られた。種の族子の張稚才は斉の護軍孫沖之の子で、幼くして孤独で自立心が強く、尚書金部郎中から右丞・建康令・太府卿・揚州別駕従事史・散騎常侍を兼ね周に使いし、還って司農・廷尉卿を歴任、いずれも清白と称された。