蕭乾
- 蕭乾、字は思惕。蘭陵の人。祖父の蕭嶷は斉の丞相豫章文献王、父の蕭子範は梁の秘書監。乾は物腰が端正で恬淡、隷書に優れ叔父の蕭子雲の書法を継いだ。九歳で国子周易生に補せられ、梁の司空袁昻に深く敬重された。十五歳で明経に挙げられ、東中郎湘東王の法曹参軍から起家した。
- 太子舎人、建安侯蕭正立の南予州鎮出に伴い録事参軍を板授され、累遷して中軍宣城王の中録事諮議参軍となった。侯景平定後、高祖が南徐州に鎮すると貞威将軍・司空従事中郎に招かれ、中書侍郎・太子家令に遷った。
- 永定元年、給事黄門侍郎に除せられた。当時、熊曇朗が豫章に、周迪が臨川に、留異が東陽に、陳宝応が建晋にそれぞれ拠り、閩中の豪帥と結んで砦を構えていたため、高祖はこれを憂い、乾を使者として逆順の理を説かせ虚実を探らせようとした。出発に際し高祖は「昔、陸賈が南征の趙佗を帰順させ、随何が黥布を説いて臣従させた故事を想う。卿はその足元にも及ぶ雅俗の才を持つ、功名を立てるのに労兵の必要はない」と激励した。乾は使命を果たし、渠帥らはみな部衆を率いて帰順した。
- 同年、貞威将軍・建安太守に除せられた。天嘉二年、留異が反し陳宝応がこれを助け、周迪も兵糧を出して臨川に迫ったため、乾は単身赴任していた郡で兵力もなく守れず郡を棄てて避難した。閩中の守宰の多くが宝応に脅迫され服属したが、乾だけは屈せず、郊野に移り人事を絶った。宝応平定後、都督章昭達のもとに出頭し、昭達がその事情を上表すると世祖は深く嘉し、五兵尚書に抜擢された。光大元年に没した。諡は静。