地方への流寓から中央復帰
- 袁敬、字は子恭。陳郡陽夏の人。祖の袁顗は宋侍中・吏部尚書・雍州刺史、父の袁昂は梁侍中・司空、諡は穆公。敬は純孝で風格あり、幼くして篤学、老いてなお倦まず。秘書郎から出仕し太子舎人・洗馬・中舎人に累遷。江陵淪覆後、嶺表へ流寓、高祖受禪時、敬は廣州で歐陽頠に依った。頠卒後、その子歐陽紇が州に拠り異志を抱くと敬は再三諫め逆順の理を陳べたが紇は従わず、髙宗即位後、章昭逹が紇討伐に赴き紇が敗れる際、敬の言を用いなかったことを悔いたため朝廷は敬を義とした。
- その年、太子中庶子・通直散騎常侍に徴され、司徒左長史に転じ左民尚書・都官尚書(豫州大中正領)に遷り、太常卿・散騎常侍・金紫光祿大夫・特進に累遷。至徳三年、卒。時に年七十九。左光祿大夫を贈られ諡は靖。子の袁元友が嗣ぎ、弟の袁泌には別伝がある。兄の子に袁樞がいる。
袁樞――清廉な選官と皇女追贈議
- 袁樞、字は踐言。梁呉郡太守袁君正の子。美しい容儀と沈静な性質で読書を好み手から書を離さず、家世顕貴で貲産豊かながら樞は独り率素に居し交往少なく端坐一室、栄利に淡白であった。梁秘書郎から出仕し太子舎人・輕車河東王主簿・安前邵陵王・中軍宣成王二府功曹史を歴任。侯景の乱で呉郡の父を省み丁父憂、四方擾乱の中でも至孝で喪に居した。王僧辯が侯景平定後、京城に鎮し衣冠が争って造請する中、樞独り門を杜じ静居し聞達を求めなかった。紹泰元年、給事黄門侍郎に徴されるが拝命前に員外散騎常侍・兼侍中。二年、兼吏部尚書、その年呉興太守に出る。永定二年、左民尚書に徴されるが至る前に侍中・掌大選事に改まる。三年、都官尚書・掌選如故に遷る。樞は博聞強識で旧章に明るかった。
- 高祖の長女永世公主は先に陳留太守錢蕆に嫁し子の錢岊を生んだが、公主・岊とも梁世に卒し、高祖受命後は公主のみ追封された。葬に際し尚書主客が蕆への駙馬都尉授与と岊への贈官を議した際、樞は「王姫の下嫁は諸侯に適い同姓を主とするのが公羊の説であり、駙馬都尉の号は漢武帝以来の制で王姫の重さに釣り合わぬ庶姓を等級づけるための授与である。今、公主は早世し伉儷已に絶え礼数の疑いもない以上、駙馬の授与は不要」とし、杜預が晉宣帝の第二女高陵宣公主に尚した例(晉武踐阼時に主既に亡く泰始中に追贈されたが元凱に駙馬の号なし)、梁の新安穆公主早薨時に王氏に追拝の事なきこと、二例を引き「公主の所生も成人前に亡く此の授与の労なし、亭侯を追贈すべき」と述べ、樞の議が採られた。
- 天嘉元年、吏部尚書を守り三年真授、右軍將軍・丹陽尹を兼領(本官如故)。五年、父の葬により拝表自解、詔して絹布五十匹・銭十萬を賜り葬後に宅で郡事を視させ、服闋後に本職に復す。その年任期満了、尹を解き散騎常侍加増(將軍尚書如故)。この時、僕射到仲舉も選事を掌ったが銓衡引拔はみな樞から出、挙薦は多く上意にかない、謹慎周密清白に自ら居し門を訪う文武職司は稀であった。廢帝即位後、尚書左僕射に遷る。光大元年、卒。時に年五十一。侍中・左光祿大夫を贈られ諡は簡懿。文集十巻あり世に行われた。弟の袁憲には別伝がある。
史論
- 史臣曰く、王沖・王通は共に貴游で早く清貫に升りながら礼節を篤く守り上に仕えたのは美事である。王勱の襟神は夷澹、袁樞の端操は沉冥で、拘放は異なれど概ね同じ揆であり、古のいわゆる名士とはこのような人物を指すのであろう、とする。