世祖沈皇后
- 世祖沈皇后、諱は妙容、呉興武康の人。父の法深は梁の安前中録事参軍。后は十余歳のとき梁の大同年間に世祖に嫁いだ。高祖が侯景を討伐した際、世祖は呉興におり、景は使者を遣わし世祖と后を捕らえようとしたが、景の乱が平定されて免れることができた。高祖の践阼に及び永定元年、后は臨川王妃となり、世祖の即位により皇后となる。后の父法深を光禄大夫に追贈し金章紫綬を加え建成県侯(食邑五百戸)に封じ諡を恭とし、后の母高氏を綏安県君に追贈し諡を定とした。廃帝の即位により后は皇太后に尊ばれ宮を安徳と号す。当時高宗は僕射到仲挙・舎人劉師知らとともに遺詔を受けて輔政していたが、師知と仲挙は常に禁中に居て衆事に参決し、高宗は揚州刺史として左右三百人とともに尚書省に入っていた。師知は高宗の権勢が重いのを見て密かに忌み、勅を偽って高宗に「今四方無事、王は東府に還り州務を治めるがよい」と告げた。高宗が出ようとしたところ、諮議毛喜がこれを止め「今もし外に出れば人に制せられよう。曹爽のように富家翁になりたくてもなれなくなる」と諫めた。高宗はそこで病と称し師知を召し留めて語らい、毛喜を先に入らせて后に伝えさせた。后は「今伯宗(廃帝)は年幼く政事はすべて二郎(高宗)に委ねている。これは私の意ではない」と答え、喜はまた廃帝にも伝えたところ帝は「これは師知らの仕業で朕の意ではない」と言った。喜が出てこれを高宗に報告すると、高宗は師知を囚え自ら后と帝に見えて師知の非を極言し、みずから勅を草して廷尉に付し治罪させ、その夜獄中で死を賜った。これ以後、政の大小はことごとく高宗に帰した。后は憂悶し為す術もなく、密かに宦者蔣裕に賂して建安の人張安国を誘い郡に拠って反させ、これに乗じて高宗を図ろうとしたが、安国の事は発覚し高宗に誅された。当時后の左右近侍は事情を多く知っており、后は連座を恐れ皆殺した。高宗の即位により后は文皇后とされた。陳の滅亡後、隋に入り大業の初め長安から江南に帰り、まもなく卒した。后の兄沈欽は世祖に従い征伐し功により貞威将軍・安州刺史に至り、世祖の即位により建城侯の爵を襲い通直散騎常侍・持節会稽等九郡諸軍事・明威将軍・会稽太守を加えられ、入って侍中・左衛将軍・衛尉卿となり、光大中に尚書右僕射、ついで左僕射に遷った。欽は素より技能なく己を奉ずるのみであったが、高宗の即位により出て雲麾将軍・義興太守(秩中二千石)となり、太建元年に卒す。時に六十七歳。侍中特進翊左将軍を贈られ諡を成とする。子の観が嗣ぎ学識あり御史中丞に至った。